もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第138回 衝撃的だった「ベルリンの壁崩壊」
新興出版社から出版された「どうなる社会主義」の表紙




 一九八九年(平成元年)八月九日、朝日新聞朝刊の国際欄の最下段に「西独代表部の立ち入り中止」との一行の見出しで次のようなベタ記事(一段の記事)が載った。

  [ボン八日=共同]西ドイツ政府は八日朝、東ドイツの首都ベルリンにある常駐代表部 (大使館に相当)への一般の立ち入りを一時中止する、と発表した。ここ数日間、出国を求める東ドイツ国民が代表部に殺到、七日夕までに約百三十人が建物内から立ち去らずに残っているための措置。出国希望者が押し掛けたために西ドイツ代表部への立ち入りが禁止されるのは、一九八四年に続き今回が二度目。

 この目立たぬ小さな記事で伝えられた事実が、やがて東欧の社会主義政権の崩壊、そして社会主義諸国の総本山であるソ連の消滅につながってゆくとは、世界のだれしも考えなかったにちがいない。私もまた、この小さな記事に目をとめることもなかった。
 が、それから半月足らずの八月二十一日付の朝日新聞朝刊の一面に「東独市民660人西側に脱出」「平和集会に紛れ」「オーストリアへ越境」という三本見出しの四段の記事が載った。
 それは、西ドイツ・ボン駐在の特派員電で、それによると、十九日、ハンガリーとオーストリアの国境で、ハンガリーの民主団体とオーストリアの欧州統一運動組織の共催で平和集会「汎ヨーロッパ・ピクニック」が開かれた。集会は、オースリア側参加者がハンガリー側に入って交歓する予定だったが、この催しのために特別に国境を開いた途端、ハンガリー側参加者の中にまぎれこんでいた東独市民が国境に殺到し、オーストリア側へ越境してしまった。こうして、オーストリア側に集団脱出した東独市民は六百六十一人にのぼった。記事には、国境の門に殺到してオーストリア側になだれ込む東独市民たちの写真もつけられていた。
 彼らは西独へ向かった。要するに、ベルリンで西ドイツへの出国を阻まれた東独国民が、ハンガリーを経由して西独に集団で脱出したのだった。
 
 これを機に、東独では、西側への出国を求める大規模なデモが頻発し、同年十月には、東独に長く君臨してきた、社会主義統一党(共産党)のホーネッカー書記長兼国家評議会議長が退陣に追い込まれる。そして、十一月九日には、東独政府が国民に対し海外旅行と海外移住手続きを自由化し、ここに第二次大戦後の「東西対決 」の象徴だった「ベルリンの壁」が崩壊する。東西両独の市民たちがベルリンの壁に殺到して自由に交流し、壁の一部を取り壊した。この風景は、マスメディアを通じて世界に伝えられた。

 東独の変化は、またたく間に他の東欧諸国へ波及する。「ベルリンの壁」崩壊の翌日には、ブルガリアのジフコフ共産党書記長が辞任。その直後、チェコスロバキアでも民主化を求める大規模なデモが起き、十二月には、一九六八年の「プラハの春」の立役者でソ連により党指導部から追われたドプチェク元第一書記が名誉を回復され、連邦議会議長に選出された。その後、フサーク大統領が辞任し、市民運動指導者のハベル(劇作家)が大統領に就任する。「ビロード革命」といわれた。
 極めつけは、ルーマニアでの展開だろう。十二月になると、この国にも民主化を求める反政府デモが頻発するが、治安部隊による弾圧で流血が拡大。が、国軍が市民側についたためチャウシェスク政権は崩壊し、チャウシェスク前大統領夫妻は処刑される。

 このほか、ポーランドでは、統一労働者党(共産党)に代わって自主労組「連帯」が政権を握り、ハンガリーでは社会主義労働者党(共産党)が党名を「社会党」に変えた。
 こうした東欧における激変は「東欧革命」とか「東欧民主化革命」と呼ばれた。

 この年、一九八九年は、新聞記者である私にとってとりわけ忘れがたい年だった。なにしろ、大事件、大きな出来事が次々と起こったからである。まず、一月に昭和天皇が死去。新元号は「平成」となった。昭和十年生まれの私は「自分がともに歩んできた昭和という時代が文字通り過去に飛び去ったのだ」という何か愛惜に満ちた感慨がわき上がってくるのを感じた。
 次いで印象に残るのは総評(日本労働組合総評議会)の解散だ。総評が結成されたのは戦後間もない一九五〇年(昭和二十五年)で、以来、日本の労働組合のナショナルセンターとして労働運動、平和運動を牽引してきた。その強力ぶりは「むかし陸軍、いま総評」と言われたほどだった。それが、三十九年にして幕を閉じたのだ。総評が労働運動や平和運動で果たしてきた役割を取材を通じて見てきただけに、私には「総評なきあとの労働運動、平和運動はどうなるのだろう。これに代わる社会運動の中核的存在はもう出て来ないのでは」との思いが強く、労働運動や平和運動の前途に懸念を抱かざるをえなかった。
 でも、私にとって一番の衝撃は、やはり「ベルリンの壁崩壊」、つまり「東欧革命」だった。それまで、いろいろ問題はあるにしても東欧の社会主義政権が軒並み崩壊するなんて夢にも思ってみなかったから、四カ月ほどの間に東欧の社会主義政権が将棋倒しのように倒壊して行ったのはまさに衝撃的だった。

 それらのニュースに接しながら、私は考えた。「なぜ、こうした現象が起きたのだろうか」「社会主義は今後、どうなるのだろうか」。こうした疑問は私だけのものでなく、多くの人々の疑問でもあるだろう。
 ならば、この疑問の解明を新聞紙上でおこなってみるというのはどうだろう。そこで、私は東京本社の企画報道室に企画を持ち込んだ。『どうなる社会主義』といったテーマで、政治家や経済人、哲学者、評論家、研究者らに東欧革命と社会主義の将来について語らせたらどうか、という企画だ。企画報道室もこれを受け入れたので、取材にとりかかった。私一人でできるような問題ではないので、三人で担当した。新妻義輔・外報部部長代理(前モスクワ支局長)、森信二郎・外報部次長(前モスクワ支局員)、それに私である。
 取材結果は結局、『インタビュー・どうなる社会主義』のタイトルで、一九九〇年四月十日から十五回にわたって朝刊に掲載された。登場していただいたのは、次の十五人(肩書きはいずれも当時のもの)。
 宮本 顕治(共産党中央委員会議長)、高沢 寅男(社会党代議士)、 大内 秀明(東北大学教授)、関  嘉彦(民社党前参議院議員)、田口富久治(名古屋大学教授)、安東仁兵衛(現代の理論編集長)、片桐  薫(イタリア近現代史研究家)、澤地 久枝(ノンフィクション作家)、牧野  昇(三菱総合研究所会長)、河合 良一(小松製作所会長)、加藤  寛(慶應大学教授)、佐藤 経明(日本大学教授)、酒井正三郎(中央大学助教授)、柄谷 行人(評論家)、久野  収(哲学者)
 各氏へのインタビューは@ソ連・東欧での激動をどう見るかA激動を生んだ背景にあるものはなにかB社会主義の行方、の三点にしぼって行われた。
 このインタビューは企画報道室編『どうなる社会主義』として新興出版社から刊行されたが、次回で、その内容を伝えたい。
                                     (二〇〇八年三月十二日記)

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