もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第137回 続・白頭山に挑む――カモシカ同人隊同行記
金剛山で。背景は鉢峰(1987年2月)

氷点下30度の三池淵。樹木には霧氷がつき、川も凍結していた(1987年2月)




 一九八七年(昭和六十二年)二月十三日に平壌入りした「カモシカ同人隊」(今井通子隊長)は、翌日から、さっそく朝鮮対外文化連絡協会(対文協)と登山について折衝を始めた。登山隊が希望したのは、白頭山、金剛山、妙香山の三山。白頭山は北朝鮮の最高峰、金剛山と妙香山は北朝鮮の代表的な景勝地である。そのすべてに登りたい、というのだ。まことに盛りだくさんの“要求”であった。
 これに対し、対文協は「すべてOKです」と応じた。これは、北朝鮮側としても、かなりの決断だったろうと思う。なぜなら、対文協としては、登山隊が目指す山の麓にたどり着くまでの交通手段を確保せねばならず、また登山隊に対文協の係員や山岳ガイドを同行させる必要があったからだ。

 登山隊はまず、金剛山へ向かった。金剛山は、この国の東海岸、韓国との軍事境界線のすぐ北側に展開する山塊である。北朝鮮側の説明によれば、東西四〇キロ、南北六〇キロに及ぶ広大な地域に花崗岩を主体とする約一万二千もの岩峰が峻立する。最高峰は毘廬峰で一六三八メートル。
 登山隊一行九人に対文協から金東哲・副局長ら二人。私たちは平壌から列車で東海岸の元山へ向かい、そこからバスで南下し、温井里に着いた。ここが金剛山の登山基地で、ホテルや公衆浴場があった。
 登山隊はここに滞在して、集仙峰(一三五一メートル)、水晶峰(七七三メートル)、鉢峰(四八〇メートル)に登った。いずれも、ベテランぞろいの登山隊にとってはハイキング並みの登山だったろう。岩壁登りを楽しんだようだ。「金剛山はまさに岩場の宝庫」。登山隊の一人はこう絶賛した。
 ハイキング程度の登山にもついてゆけない私は、もっぱら温井里にいて、その周辺を歩いたが、温井里一帯は、一面、雪化粧だった。私たちが滞在中、折悪しくずっと雪降りで、金剛山の山々も霧に包まれて、その全容を私たちに見せなかった。が、時折、霧が切れ、岩峰の一部が顔を見せた。雪を被った峰々や樹木はまことに神々しく、まるで荘厳な山水画を見るようだった。雪に彩られた渓谷も思わず息をのむほど美しかった。対文協の係員によれば、金剛山を訪れた外国の一詩人は「金剛山を見ずして、天下の名山を語るなかれ」と嘆声を放ったそうだが、それもむべなるかなと思った。
 少しは山に登ってみたいと、登山隊が鉢峰を目指した時、後ろからついていった。深い雪をラッセルしていたら、すぐ息切れしてしまい、途中で引き返さざるをえなかった。
 ところで、この景勝地にも張りつめた空気が忍び寄っていた。私たちがここに滞在中の二月十九日から、米韓合同軍事演習が始まったからだ。金剛山のすぐ南が軍事境界線。そのためだろうか、金剛山の近くで、移動中の、対戦車砲らしい車両で武装した兵士の隊列に出会った。兵士や海岸線の撮影は許されなかった。「そうだ。南北は厳しい対立関係にあるのだ」。冷厳な現実に引き戻された思いだった。

 平壌に戻った登山隊が次に目指したのは白頭山(二七五〇メートル)だ。山は、この国の北部、中国との国境にそび立つ。これに登頂するには、通例、山麓の三池淵(標高一五八〇メートル)が基地となる。そこまでは鉄道がないので、北朝鮮側は登山隊にソ連製小型ジェット機(ツボレフ134型)を提供した。平壌国際空港から約一時間で三池淵に到着。ここには、新しいホテルがオープンしていて、登山隊はそこを拠点に白頭山を目指した。
 登山隊が挑んだルートは三池淵から、中朝国境となっている鴨緑江の源流を遡り頂上に至る約六〇キロのコース。地元の人によると、最も難しいルートとされ、厳冬期にこのルートを登った人はまだない。登山隊は二月二十三日に三池淵を出発、ところによっては二メートルを超す雪に覆われた長い山すそをたどり、二十五日、頂上に達した。
 山頂付近は当時、毎秒四〇から四五メートルの烈風が吹き、気温も氷点下三〇度以下になった。このため、大蔵喜福・副隊長と同行した金東哲・対文協副局長が、それぞれ顔に凍傷を負った。佐久間写真部員も耳に凍傷を負った。「風の強さと寒さ。山の高さはそれほどでもないのに、自然条件の厳しさという点では、冬のヒマラヤのチョモランマ(エベレスト)の六〇〇〇メートルあたりより厳しい感じでした」。今井隊長の感想だ。
 下山してきた登山隊一行は、地元民代表から花束を贈られた。

 対文協によると、外国登山隊による白頭山の冬季登頂は一九四八年の北朝鮮建国以来初めてだった。カモシカ同人隊によれば、日本人による白頭山の冬季登頂は一九三五年の京大旅行部遠征隊による登頂以来五十二年ぶりという。
 私は三池淵のホテルで朗報を待った。二十六日、待ちに待った連絡が登山隊から届き、平壌経由の国際電話で東京本社に原稿を送った。二十七日付夕刊に「カモシカ同人隊が厳冬の白頭山征服」との記事が載った。

 三池淵での滞在で印象に残るのは、その寒さである。滞在中、氷点下三三度になった朝があった。寒さが厳しい信州に育った私もまだ経験したことのない極寒だった。窓外に出していた缶ジュースが朝、かちんかちんに凍っていた。
 ホテルから出ると、あたりは森閑としていた。空気はぴーんと張りつめ、堅く、乾いた感じ。空気中の水分が凍てついてしまったからだろう。頬がヒリヒリと痛む。エゾマツ、シラカバなどの原生林の枝々には霧氷がとりつき、朝日が昇ってくると、キラキラ輝いた。鴨緑江の源流は凍りついていた。静まりかえった原生林を歩くと、ノロの群れを見かけた。
 三池淵は人口一万五千。リンクでスケートに興じる人たちに出会った。また、ここは金日成主席が率いる朝鮮人民革命軍が十数年間にわたって抗日武装闘争を繰り広げたところとかで、当時の、革命軍の宿営地や戦闘の跡が保存、復元されていた。主席の巨大な銅像もあった。それらを巡る女子大生の隊列に出会った。

 三池淵から平壌に戻った登山隊は、妙香山へ向かった。妙香山は平壌の北に位置する山塊だ。東西、南北の長さはそれぞれ三〇キロ。主峰は一九〇九メートル。渓谷を流れる清流、無数の瀧が訪問者を魅了する。私はすでに訪れたことがあるので、登山隊に加わらず、平壌で時を過ごした。登山隊は、凍った瀧(氷瀑)登りを楽しんだようだ。
 平壌市内を回って印象に残ったのは、各所で競技場建設の突貫工事が行われていたことだ。八八年に韓国のソウルでオリンピックが開かれるため、これに対抗して平壌で世界青年学生平和友好祭を開くためだった。
 
 三山登山を終えたカモシカ同人隊は三月六日に帰国。同隊の三山登頂の模様を伝える佐久間写真部員の「白頭山登頂写真展」が、四月四日から朝日新聞社の主催で東京・有楽町のマリオン・朝日ギャラリーで開かれた。今井隊長と隊員たちは『白頭山登頂記』をこの年七月、朝日新聞社から出版した。

 同書の「あとがきに代えて」の中で、今井さんは書いている。
 「私は、この国へ行くことが出来てよかったと思っています。また一つ知らない所を知ることができて、知らない人々と友人になれて、そしてさらに友人を通してお互いに知り合った者同士の安心感から、もっと多くの人々と知り合うチャンスを広げられたらと思うのです。ヨーロッパへのトレッキングツアーを二〇年間してます。ネパールへも一〇年行っています。中国へは二回、今度が三回目、山好きな日本の方々をその地、その地へお連れして、百の言葉にまさる一見を経験していただくことで、その国、その地の持つ特徴を一人でも多くの方に知っていただきたいと思っています。今回、いろいろなご質問を、いろいろな方から受け、思うことは一つです。この国を自分の眼でご覧になれるチャンスが早くくればいいな―と。それには双方の政治家の方々に、平和的な外交をしていただければ、ということではないでしょうか」

 しかし、その後の日朝関係は、北朝鮮による日本人拉致、核実験、これに対する日本政府による「北」への制裁措置などにより、途絶状態にある。戦後最悪の状況だ。今井さんをはじめとする日本の民間人や民間団体によって戦後営々と積み上げられてきた日朝友好親善への努力は一気に瓦解してしまった感じである。いまのところ、関係打開の兆しもない。が、歴史的に深いつながりをもつ隣国同士間でこうした不幸な状況がいつまでも続いて欲しいと望む人はそう多くはないだろう。としたら、日朝両当局者の努力により、拉致問題の解決、日本による「北」に対する過去の植民地支配の清算、日朝国交正常化といった懸案が進展するよう願わずにはいられない。
 それにひきかえ、激しく敵対していた韓国と北朝鮮はその後、融和関係が進み、いまでは韓国の観光客が金剛山を訪れている。かつて金剛山の山中で厳しい南北対立の影を見た私にはまさに隔世の感である。時代はやはり動いているのだと思わずにはいられない。
                                     (二〇〇八年二月二十一日記)

トップへ
目次へ
前へ
次へ