もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第131回 信仰厚き人びと――世界の秘境・チベットへC
ラサ近郊で出会った定住遊牧民の一家。背後に見えるのは仏壇だ
寺院内に安置されている仏像にはカタ(白い絹の布)がかけられている。参拝者が供えたものだ




 青海・チベットの旅を顧みて印象に残ることの第三。それは、チベットの人々の信仰の深さである。
 この点に関して私が最初に衝撃を受けたのは、チベット高原に延びる道路、青蔵公路を走り続けてきた私たち人文班の車が、チベット自治区の区都、ラサの手前五十数キロの地点に達したときに目撃した光景だ。
 道路の端を、三人の若い女性が、まるで尺取り虫ような仕草でのろのろと前方に進んでゆく。
 まず直立不動の姿勢になり、合掌しした後、合掌したままの両手を頭の頂にささげ、次にこれを口のあたりから胸へと三段に下ろし、そこで離掌して両膝を地面につけ、全身を真っ直ぐ前方に伸ばして地面に伏し、額も地面につける。同時に両手を前方に突きだし、頭の前で再び合掌する。これを延々と繰り返し、少しずつ少しずつ前に進んでゆく。
 これが、五体投地礼(ごたいとうちれい)である。自らの罪を懺悔し、仏への帰依を誓う礼法とされている。回数が多ければ多いほど、それだけ功徳がある、とチベット人の間では信じられている。
 三人の女性の三つ編みの髪は砂ぼこりにまみれ、顔は日焼けと泥で真っ黒。衣服も、土砂とほこりと垢で黒光りしている。両手に大きな手袋をはめているが、これも薄黒く汚れている。が、彼女たちの表情は明るく、私たちに向かって笑顔をみせた。
 おそらく、彼女たちは五体投地礼を繰り返しながら、ラサの寺院に行こうとしているのに違いなかった。顔や衣服の汚れ具合からすると、かなり遠いところからすでにもう何日も五体投地礼を続けてきたように思われた。
 チベットに向けて出発する前、私が読んだ本の中に「チベットの人たちは、ラサの寺院に参拝するのが生涯の願いで、なかには、遠隔の地から五体投地礼をしながらラサに行く人もいる」とあったが、それを実際にこの目で見ると、やはり衝撃だった。

 五体投地礼は、ラサでもよく見かけた。この街の中心にある、チベット最古の寺院、チョカン寺(大昭寺)の正門前では、いつ行っても、ただひたすら五体投地礼を繰り返す人々が絶えなかった。各地からやってきたチベット人の巡礼たちだった。
 チョカン寺を一周する道路はパルコル(八角街)と呼ばれるラサ随一の繁華街。沿道にさまざまな店が並ぶが、そこでも声高にお経を唱えながら五体投地礼に熱中する男性をみかけた。上半身は裸。男性の額はザクロの実のように割れ、黒く血がにじんでいた。地面に額を打ち付けたためだろう。男性の周りには人垣ができ、男性に金を与えていた。
 ラサ以外でも、五体投地礼を続けるチベット人に出会った。
 そればかりでない。私たちが訪れた寺院では、どこでも、トラックやバス、あるいは徒歩で参拝にやってきた巡礼たちに出会った。チベット自治区内ばかりでなく、遠く甘粛、青海、四川の各省からやってきたチベット人もいた。この人たちの衣服はひどく汚れていて、それが彼らの巡礼が長い旅であることを物語っていた。

 巡礼たちの敬虔な参拝ぶりにも目を見張った。彼らは手に数珠をもっていた。マニ車を手にもつ人も少なくなかった。これは、中に経文が書かれた紙が入っている回転式の円筒で、銀やスズ、銅でできている。回転させればさせるほど功徳がある、とされている。
 薬缶や瓶を手にした巡礼も目についた。その中には、バターが入っていて、それを、暗い寺院内の仏像の前で燃えている灯明に注ぐ。袋につめて持参してきたツァンパ(麦こがし)を仏前に供えてゆく人たちもいた。現金を供えたり、僧に渡してゆく人たちもいた。
 寺院の境内では、マニ石が積まれているのを見かけた。これは、経文を刻んだ、平べったい石のことで、巡礼たちが奉納したものだった。

 チベット人の家庭を訪れたときも、チベット人の敬虔な信仰の一端に触れた。
 私たちはラサに入る前、標高四八〇〇メートルの地点で、チベット人一家を訪れる機会があった。定住遊牧民の一家で、石造りの家屋に九人が住んでいた。その居間に仏壇があった。木造で胸くらいの高さ。横は三、四メートルもあろうか。前面には鮮やかな色彩で草木が描かれていた。仏壇の上には、額に入った五枚の仏画が立てかけられていた。これも、鮮やかな色彩の仏画だ。その前に小さな灯明。実に立派な仏壇であった。
 仏壇のかたわらに経典が置かれた家もあった。紙に書かれた分厚い経典だ。どうやら、経典はチベットの人々にとって極めて身近なもののようで、パルコルでも経典を売っている店が目についた。

 チベット自治区政府で聞いたところによると、自治区の人口は一八九万人。うちチベット人は一七八万人。そのチベット人の九五%が仏教の信者とのことだった。チベットにおける仏教信仰の広がりがうかがえる。

 それにしても、チベット人はなぜそんなにも信仰心が厚いのだろうか。
 その点を、チベット自治区の役人に訊いてみた。彼によると、それには歴史的事情があるとのことだった。「まず、仏教の歴史が長いからでしょう。チベットに仏教が伝えられたのは七世紀ですから、すでにかなりの時間がたちます。第二は、仏教がチベットに伝えられたとき、王様が自ら信者となって仏教を国中に広めたからです。第三は、十七世紀に宗教上の法王が政治上の国王も兼ねるという政教一致の政権が生まれ、宗教と行政の一体化が進んだからです。これらの事情から、ここでは仏教が人民の間に深く浸透したわけですね」
 仏教を自ら信じてこれを広めた王様とは、チベットを初めて統一したソンツェン・ガムボ王のこと。また、十七世紀にできた政教一致政権とは、ダライ・ラマ五世政権のことだ。

 また、あるチベット人によれば、チベット人の間で信仰が盛んなのは、チベット人の間で輪廻(りんね)の思想が広く信じられているからだという。
 これは、車輪が回転して停まることがないように、人間もまた無限に生死を繰り返すという考え方だそうだ。具体的には、人間の死後の世界には地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人間・天上の六道(ろくどう)があり、人はそれぞれ生前の善悪の行いによって六道のうちのいずれかに生まれ変わるというのだ。すなわち、生前に善い行いをした人は天上か人間の世界に、悪い行いをした人は地獄に堕ちたり、餓鬼や畜生、修羅に生まれ変わるというわけである。
 これはインドに生まれた考え方とされているが、これが仏教に取り入れられ、仏教とともにチベットに入ってきたといわれている。この結果、チベットの人々は、死後、地獄に堕ちたり、畜生に生まれ変わることのないように、つまり、来世での幸せを希求して、生きているうちにひたすら仏に帰依し、功徳を積むよう心がけるようになったというのだ。おそらく、チベットの人々にとっての至福は、この世で富を蓄えることではなく、来世での救済なのだろう。
 私が耳にしたところでは、チベット人の巡礼の中には、日ごろせっせと稼いで貯めたお金をすべて持って巡礼の旅に出、それを寺院や僧にすべて献上してしまう例もあるとのことだった。

 自治区政府の役人の説明にも、あるチベット人の見解にも、説得力があった。が、それだけではないのではないか、他にも理由があるのではないか。チベットの旅を続けるうちに、私はそう思うようになっていった。
 すでに述べたように、チベットの自然環境は実に過酷だった。私たちが短い旅の間に経験したものといえば、希薄な空気、寒気、雪と氷、強烈な日差しと烈風……などといったものだったが、私たちのような旅人でない、チベットに常住している人々にとって自然環境はもっと苛烈なものなのではあるまいか。それは、おそらく、私たちチベットの外で暮らす人間の想像を超えた峻烈なものと思われた。そうしたあまりにも非情で手荒な自然の営みを前にした時、チベットの人々は人間存在の小ささ、人間の無力さにおののき、人知を超えた超自然的なものの存在、すなわち神や仏の存在を信ずるようになったのではないか。
 あるいはまた、こうした自然の猛威の中で暮らさざるをえないことから、チベットの人々は日常、「死」というものを私たちよりもより身近に感じているのではあるまいか。そこから、日常生活にあっても、一心に「平安無事」「無病息災」を神や仏に祈る敬虔な信仰が生まれてきたのではないか。私には、チベットでの仏教の興隆が、チベットの厳しい自然条件と密接な関係があるのではないかと思われたのである。

 現に、チベットを旅していて、万年雪をいただいた高峰の連なりを目にすると、何か表現しがたい神秘的な思いにかられた。とりわけ、夜明けに、これらの高峰が朝日を浴びてピンク色に染ってゆく光景はまことに荘厳で、思わず言葉を失って、しばし立ち止まって見とれるほどだった。その瞬間、私の脳裏を去来したのは「白き神々の座」という言葉だった。そして、この世界を創り出した造型主、すなわち神の存在を信じたい心境になった。
 聞けば、チベットの人々は、高い山の頂には神々が宿っていると信じ、崇拝の対象としているとのことだった。チベットの人々もまた、こうした神々しいまでの自然の光景を目前にしたとき、神や仏の存在を信じたくなるということだろう。
                                    (二〇〇七年十一月二十八日記)

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