もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第130回 究極のシンプルライフ――世界の秘境・チベットへB
中国・ネパール友好道路の沿線で出会ったチベット人母子。乾した山羊の糞を袋に入れていた。後方は住居のテント
青蔵公路の沿線で出会ったチベット人の一家(チベット自治区で)




 青海・チベットの旅を顧みて印象に残ることの第二。それは、チベットの人々が自然の生態系と実によく合致した生活をしているな、ということだった。別な言い方をするならば、実に合理的な生活をしているな、ということだった。
 チベットの平均標高は四五〇〇メートルといわれている。そうした高地の自然環境の苛烈さの一端を前回紹介したが、そうした厳しい条件下でも人間が生活していた。私の観察では、四八〇〇メートルあたりにまでチベットの人々が居住していた。
 チベット人の大半は、遊牧民か半農半牧の民だった。その遊牧民の生活を取材してみて、その生活にはまったくムダがないことに気づいた。

 遊牧民は当然のことながら家畜を飼育することをなりわいとしている。羊、山羊、ヤク(高地牛)などだ。これらは、いわば商品であって、彼らはそれを育て、売ることによって生計をたている。つまり、育てた家畜を売って現金を得、それで日常生活に必要な品々を買う。が、それらの家畜は、同時に彼ら自身にとっての生活必需品でもあるのだ。
 例えば、ヤクは、まず物資の運搬にはなくてはならない存在である。「高原の船」と呼ばれるゆえんだ。また、ヤクの肉は主食の一部となるほか、乳はバターに加工され、チベット人には欠かせないバター茶の材料となる。さらに、毛は彼ら自身の手で織られてテント地となり、その皮は家族の衣服となる。その糞は干されて、暖房や炊事のための燃料に変わる。

 旅の間、そうした遊牧民の暮らしに何度か触れることができた。青海省では、高原のまっただ中にたった一つ、ポツンと張られたテントがあり、そのわきで、三人の子どもを従えた女性がヤクの毛で布地を織っていた。織機は、地面に木製の三脚を立て、その三脚の下部に縦糸を張り、手にした杼で横糸を左右に動かすというだけの原始的なものだった。ヤクの毛でつくられたテントの中には炉があって、ヤクと羊の乾いた糞が燃えていた。テントの外には、ヤクと羊の糞がうず高く積まれていた。
 ラサ市に近くなってから、定住遊牧民の住家に立ち寄ったが、そこでは、バター茶とチャンをふるまわれた。チャンとはチンコー(青裸麦)からつくった一種のどぶろくだ。どちらも自家製であった。主食の一つ、ツァンパ(粉状の麦こがし)は、バター茶でこねて食べる。

 この遊牧民家庭から少し離れたところでキャンプを張って一泊し、翌朝、テントの撤収作業をしていると、近くにいた遊牧民の父子が私たちのところまでやってきた。中年の男性と女の子。二人は私たちが捨てた缶詰の空き瓶や空き缶を拾うと、大事そうに抱えて去っていった。その後も同じような経験を何度もした。おそらく、遊牧民にとっては、空き瓶や空き缶は何かに利用できるものなのだろう。

 要するに、チベットの遊牧民の生活では、生活に必要な基本的な物資は自給自足するという原則が貫かれていた。つまり、必要なものの大半は自然から得る。そして、それらは有効に活用され、捨て去られるものは何一つない。いうなれば、ムダのない生活であった。そこには、厳しい自然環境がもたらした生活の知恵が貫かれていた、と私には思われた。

 ムダのない合理的は、死後にも引き継がれているように思った。鳥葬である。
 鳥葬は、チベットで一般的に行われている葬式だ。人が死ぬと、その遺体は部屋の一隅に三日ほど安置され、やがて鳥葬請負人によって鳥葬の現場まで運ばれる。そこで、遺体はナタ、ナイフなどで解体され、ハゲワシに提供される。
 私は、ラサ滞在中、鳥葬の現場を遠方から眺める機会に恵まれた。それは、ラサ郊外の人里離れた岩山の中腹にあった。遺体が解体されたとみられる、平たい大きな石があり、石の側面には幾筋もの白っぽい縦縞があった。刻まれた遺体から流れ落ちた体液の跡に違いなかった。石の上空では、数羽のハゲワシが旋回していた。石の近くからは白煙が上がっていた。死者が身につけていた衣類を焼いていたのだろうか。近くの山の尾根に人影があった。鳥葬を遠くから見守る親族であろうか。
 こうした鳥葬に対して、私は「なんと残酷な奇習だろう」と思っていた。しかし、鳥葬の現場を目撃し、さらにチベットの自然を見続けているうちに、鳥葬こそチベットの風土に合致した、まことに合理的な葬送のように思うようになった。
 仮に、火葬したいと思ったとしよう。が、ここでは薪を調達することは至難のわざだ。チベットでは、森林が極めて乏しく、木材は貴重品なのである。なら、土葬はどうか。これも、容易なことではない。チベットでは、岩石や砂礫で覆われたところが多く、そうした固い岩盤を掘り下げることは容易でないからだ。それに、寒冷の期間が長いので、地面が凍土のままの期間もまた長いはずだ。こうしたことを考えると、鳥葬は極めて合理的な風習のように思えてくる。
 それからまた、鳥葬には、生命尽きた後もなおわが身を他の生き物の生存のために供するといった仏教的な考え方も込められているのではないか、と私には思われた。
 どちらにせよ、そこには、チベットの自然と共存してゆこうというチベットの人たちの生活の知恵が働いているように私には思えたのである。

 ひるがえって日本人の日常生活はどうであろうか。
 あり余るモノ、次から次へと捨てられる品々、もう行き場がないほど堆積しつつある廃棄物。まさに、資源とエネルギーの果てしない浪費の繰り返しである。こうした過剰生産と過剰消費の繰り返しにより、日本人は世界でも稀にみる豊かな消費生活を享受するに至ったが、それでも日本人の欲望はとどまるところを知らず、なお物質的飢餓感にさいなまれている、といってよい。
 最近では、日本人の飽くなき欲望のために、地球の資源が枯渇しつつあるとの指摘もなされている。とくに、日本が世界各地から輸入する食料は膨大な量で、穀物や魚類の枯渇が懸念されている。そのうち、日本人は世界の自然破壊者だと非難されるのではないか。
 あくまでも物質的な欲望の充足を求めてやまない日本人。これにひきかえ、自然と調和した生活を目指すチベットの人々。日常生活に対する満足度という点では、「過少」の中で生きるチベットの人々の方が、「過剰」の中で生きる日本人よりもはるかに強いのではないか。私には、そう思われた。人々の表情からしても、チベットの人々の方が、日本人よりもずっと落ち着きのある日々を過ごしているように私には見えた。

 チベット人があがめるチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ十四世の『チベットわが祖国――ダライ・ラマ自叙伝』(木村肥佐生訳・注、亜細亜大学アジア研究所、一九八六年)を読んいて、心に残った一節があった。
 「私たちは幸福であった。欲望は不満を引き起こし、幸福は平和な心から湧き出る。多くのチベット人たちにとって、物質的な生活は厳しいものであった。しかし欲望の犠牲者ではなかった。そして私たちの山の中の、質素で貧しい生活の中にこそ、世界の大部分の都市生活よりも、おそらく、はるかに大きい心の平和があった」
 これは、一九五九年にラサからインドに亡命したダライ・ラマ十四世が、中国軍が進撃してくる前のチベットの実情を回想したものだ。この一節を読んだとき、十四世の見解と、チベットの旅を通じて私がチベットについて感じていたものとがあまりにも見事に一致していて、私は驚いた。チベットと日本は、まさに対極にあるな、と思わずにはいられなかった。

 チベットの旅からすでに二十一年の歳月が流れた。が、私の脳裏には毎日一回、必ず、あのチベットの荒涼たる高原の相貌がよみがえってくる。朝の洗顔の時だ。
 洗顔のために私は水道のノブをひねるが、そのとき洗面台に水をいっぱい貯めることはない。両手ですくえる程度の、できるだけ少量の水しか貯めない。
 なぜか。チベットでは、旅の間、水がとても貴重なものだったからだ。まず、水が極めて乏しく、とてもじゃぶじゃぶ湯水のごとく使えるなどということはなかった。私たちは、小さな金たらいに少量の水をチベットの人々にもらい、それで、口をすすぎ、顔を洗い、体を拭いた。それも、毎日ではなかった。たまに集落があると、水をもらえるのだった。
 それが習慣になってしまったのか、いまだに、洗面台の前に立つと、チベットでの体験がよみがえってきて、水を節約しなくては、との思いに駆られるのである。
                                     (二〇〇七年十一月十五日記)

トップへ
目次へ
前へ
次へ