もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第85回 「革命万歳」――パリで見た学生運動


メーデーにくり出したフランス全学連の学生たち(UNEFの横断幕を掲げた一隊。
1970年5月1日、筆者撮す)




 安保問題の取材のため朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に入国を申請したところ、許可が出たので日本を発ったが、途中、モスクワの北朝鮮大使館で入国許可を取り消され、やむなくモスクワからフランスのパリへ。一九七〇年(昭和四十五年)四月二十三日のことである。

 すぐパリから帰国しようと思ったが、思いもよらずその地を踏むことになった“花のパリ”である。以前から一度は訪れてみたいと憧れていた地だ。それに、帰国しても、すぐ連休のゴールデン・ウイーク。ならば、少しパリで見聞を広めて帰ろうと、しばらく滞在することにした。そう長い期間でなければ会社も許してくれるだろう、と決め込んだ。

 なにはともあれ、まず観光である。マロニエの新緑が目にしみる中、凱旋門、エッフェル塔、ルーブル美術館、オペラ座、ノートルダム寺院、サクレ・クール寺院、モンマルトル墓地、バスティーユ広場、ブローニュの森……と、御上りさんよろしく地図を頼りにめぐり歩いた。どこもかしこも、私には目新しく、名にし負ふフランスの歴史と文化にじかに触れることができて感動した。

 が、“花のパリ”にふさわしくない、なんとも異様な光景に出くわした。ラテン区(学生街)のソルボンヌ(パリ大学文、理学部)へ行った時のことだ。大学校舎の玄関やその周囲に、金網を張った灰色で長方形の車が並んでいた。学生に尋ねると、警察の護送車だという。「われわれはサラダカゴと呼んでいるが」と、その学生。形といい、色といい、日本の護送車とそっくり。車の中には、手持ちぶさたの警官がいっぱい。そのわきを外国人観光客を満載した観光バスが通り過ぎる。
 この光景を見た途端、私の脳裏の中で日本の光景と重なった。日本もまた、この時期、主要な官公庁や国会、大学周辺に警察の警備車が常駐していたからである。
 日本では、一九六七年十月の第一次羽田事件を皮切りに反代々木系学生各派が政治的要求を掲げて過激な実力闘争をともなう街頭闘争を展開するようになり、また、全国の大学で、「大学改革」を迫る反代々木系学生や無党派の学生によるバリケード封鎖などをともなう学園紛争が続発したため、政府や大学当局は警察による警備を強化するなど、学生の“反乱”封じ込めに躍起となっていた。街頭闘争のピークは六八年十月二十一日の新宿駅騒乱事件、学園紛争のピークは六九年一月十八日の東大安田講堂封鎖解除だったが、その後も学生たちによる街頭闘争や学園闘争は後を絶たず、七〇年に入っても、なお学生運動は続いていた。
 フランスでも六八年から学生運動が高揚したとは聞いていた。ソルボンヌ周辺で警官隊の姿や護送車の列を見て、私はフランスでもまだ学生と警官の対峙が続いているのを知った。かくして、私の中でがぜん、社会部記者としての好奇心が頭をもたげ、フランスの学生運動の現状を調べてみたくなった。

 ソルボンヌに学ぶ日本人留学生の話や、パリで入手した文献によると、当時のフランスの学生運動の実情は次のようだった。
 「五月革命」と呼ばれることになった、フランスの学生・労働者を中心とする大規模な反ドゴール(当時のフランス大統領)体制運動が、世界を揺るがしたのは一九六八年五月から六月にかけてである。
 「五月革命」の火つけ役はパリ大学ナンテール分校だった。政府が打ち出した「大学の管理強化」に学生が反発して大学当局と学生の対立が深まりつつあった六八年三月、活発化しつつあったベトナム反戦運動で、米国資本の会社のパリ支店に爆弾が仕掛けられたり、米国旗が焼かれるといった事件が起きた。分校の学生が逮捕されたことから、学生たちがこれに抗議して分校を占拠し、休校になった。
 五月には学生のデモが警官隊と衝突、多数の学生が逮捕され、パリ大学は閉鎖された。フランス全学連が無期限ストに突入すると、スト学生排除のためパリ大学に警官隊が導入された。これに抗議して、六月十日には学生約二万人がラテン区でデモ行進、多数の車が炎上し、警官隊との衝突で大量の負傷者が出るという事態になった。同十三日には労働総同盟(CGT)などがストを指令、学生に労働者が合流してパリで大規模なデモが行われた。同十九日から二十日にかけてはフランス全土にゼネストが波及し、交通機関が止まり、学校、企業も機能マヒに陥った。左翼連合、共産党が倒閣運動を始めた。
 これに対し、ドゴール大統領は国会を解散。総選挙ではドゴール派が大勝し、学生や左翼陣営は敗北。が、翌六九年四月に行われた、地方制度と国会上院の改革を求める国民投票ではドゴール大統領が敗れ、退陣に追い込まれた。
 学生が行動を起こした背景には、大学当局や政府による弾圧への反感があったからとされる。労働者がこれに同調したのは、物価高と賃金の伸び悩みに対する不満が高じていたからだといわれる。

 私がパリの地を踏んだ時、学生運動の火が再び燃え始めていた。
 まず、前年の六九年の十月、パリ大学医学部の学生と教官がストに突入、大学病院の業務がストップした。騒動のきっかけは、政府が医師養成制度に関する政令を発表したためだった。これは「将来、医師が多くなり過ぎる見通しなので、医学部に在学している学生に選抜試験を施し、ふるいにかける」という内容。医学部学生にとってはまさに死活の問題とあって、学生と学生に同情した教官がストで政令の撤回を迫ったというわけだ。
 また、同じころ、パリで学生を中心とするベトナム反戦デモがあった。極左派が中心となって計画したデモだったが、政府は「パリで行われているベトナム和平会談に悪影響を及ぼす」などとして集会とデモを禁止するという措置に出た。そればかりか、事前にLC(共産主義者同盟)の指導者ら極左団体の幹部多数を逮捕したほか、当日は機動隊が会場を取り巻いてデモの鎮圧にあたった。しかし、学生ら一万人以上が会場付近につめかけ、機動隊の実力行使で約二千六百人が検束されるという騒ぎになった。
 七〇年に入ってからは、「五月革命」の発火点となったパリ大学ナンテール分校で紛争が再発した。二月、極右団体の学生と左翼団体の学生、さらに左翼学生同士の衝突事件が起こり、けが人も出た。これを機に機動隊、憲兵隊がキャンパスに常駐するようになり、三月、極左派学生と機動隊が衝突。一般学生も含めた約二千人が校舎にたてこもって機動隊に石、火炎びんなどを投げ、機動隊はガス弾で制圧を図るなど、東大安田講堂さながらの攻防が展開された。負傷者は双方合わせて四百人以上にのぼった。
 私が同校を訪れたのは四月末だったが、激突の跡はほとんど片づけられ、学園には静寂が戻っていた。しかし、校舎の壁にスプレーでなぐり書きされた、さまざまのスローガンと、廊下に張られたビラが激戦の余韻を伝えていた。スローガンは「フランス帝国主義打倒」「パレスチナ解放戦線万歳」「この校舎の学生はブルジョア的秩序を拒否する」「IBMは出てゆけ」などといったものだ。ビラには「警官導入抗議」とあった。
 
 さらに、私がパリに着く直前の四月二十一日、パリ郊外のバンセーヌ大学で学生千人、教官百人が校舎を占拠するという事件が起きた。この大学は「五月革命」後、政府が新設した急造大学だが、事件のきっかけは、政府が、毛沢東主義者として知られる、同大学哲学科の若い女性教官を追放したことだった。この女性教官はバンセーヌ大学に移るまではブザンソン大学の教官で、「五月革命」の積極的活動家。バンセーヌにきてからも、毛沢東主義者として積極的な発言を続けていた。
 教授会が不適格と決議したわけでもない教官を、政府が一方的にやめさせるのは異例として、学生や教官が抗議の行動に出たのだった。これに対し、警官隊が出動。占拠学生は
徹底抗戦派と退去派に分かれたが、退去派が多数を占め、激突は避けられた。
 私がここを訪れたのは事件から約一週間後のことだったが、占拠の舞台となった校舎はまだほとんどそのままだった。学生がたてこもった教室は天井が落ち、窓ガラスに穴があき、電灯のコードが引きちぎられていた。扉は影も形もなかった。そして、教室、廊下、便所の壁という壁は落書きで埋まっていた。
 一番目についたのは「MAO LINPIAO」の文字。毛沢東と林彪のことだ。そのほか「ブルジョアを殺すのは当然だ」「ファシスト打倒」「革命万歳」などなど。こんなのもあった。
 「大学をなくし、労働者階級をなくし、消費社会をなくす。これが本当の革命のプログラムだ」
 「最後の資本家が最後の官僚の内臓で首をくくられたとき、人類はしあわせになる」
 「官僚はみんな死んでしまえ」
 「われわれは社会に適応できない人間だ」
 「おれはホモだ。男性のシンボルが好きだ」
 漢字の落書きもあった。「毛沢東」「全学連」「全共闘」「東大」「日大」の五つ。占拠学生に日本人留学生がいたのだろうか。それとも、占拠学生がはるかな日本の学生運動に連帯を表明するために書いたものだろうか。

 五月一日はメーデー。パリでは共和国広場からバスティーュ広場までの約二キロでデモが行われた。CGT、民主労働総連合(CFDT)、全国教職員組合(FEN)の労働者数万人が整然たるデモを繰り広げた。三、四十人の労働者が横に並んでがっちり腕を組み、大通りいっぱいになって行進するさまは迫力があった。巨大な潮のようだった。
 毛沢東派、トロツキスト系、アナキスト系の一団数千人もこのデモに加わり、最後尾についた。なかでも、人民帽をかぶり、真っ赤な『毛沢東語録』をかかげ、「MAO LINPIAO!」と叫んで行進する毛沢東派の一団が、ひときわ人目を引いた。
 労働者のデモが解散したころ、これら極左派の一部が解散地のバスティーュ広場で機動隊に向かって「警官帰れ」「われわれは国家を破壊するぞ」などと叫び、石やプラカードを投げた。機動隊はガス弾を発射し、広場は逃げまどう群衆で騒然となった。この騒ぎで二百六人が逮捕された。

 フランスの学生運動の一端に触れて、さまざまな感慨が去来した。まず、一九六〇年代後半から七〇年代初めにかけての「学生反乱」は世界、それも西側諸国に共通する社会現象であったという事実を確認できたことである。現に、フランスの学生運動と日本のそれとは、その形態においても、掲げられていた課題においても共通している面が多かった。例えば、どちらの運動にもベトナム戦争や中国の文化大革命が濃い影を落としていたし、学生たちが「大学の管理強化」に反対していたことも共通していた。学生組織が四分五裂していたことも共通していたと言っていいだろう。

 「造反有理」(反逆には道理がある)を旗印にして高揚した世界的な学生運動は、一九七〇年代後半にはいずこの国でも燃え尽きた。それからすでに三十年余の歳月が流れ、世界の若者たちには、かつてのようないらだちも反権力的熱狂も暴発もない。
 ところが、今年(二〇〇六年)三月、フランスで、政府が実施しようとした「若者向け雇用制度(CPE)」に、若者たちが猛反発してパリその他で大規模な抗議デモを起こし、左派の野党や労働組合も若者に同調して街頭行動に打って出て、ついにCPEを廃止に追い込んだ。
 そのニュースを聴きながら、私は、フランスには「五月革命」の伝統が今なお地下水のように脈々と生きているのだろうか、と思ったものだ。これにひきかえ、日本の若者たちはなべておとなしく、かつての学生運動の再来を感じさせる気配は全くない。
 ところで、四月二日付の朝日新聞にはCPEをめぐるフランスの紛争に関するパリ特派員の論評が載っていた。「楽しく危うい『街頭政治』」と題されたその記事は「民主主義が定着した主要国では例外だろう。フランスの政治はいまも、街頭で動く」として「自由な意思表示は民主国家のあかしだ。同時に、兵舎や宮廷や街頭で国が動かないようにする知恵が、議会制民主主義ではなかったか」と述べていた。
 そうだろうか。民主国家の根幹が議会制民主主義にあるのはいまさらいうまでもない。が、その形骸化が指摘されて久しい。議会に民意が反映されなくなっている。形骸化が著しい議会制民主主義を活性化し、補完するためにも直接民主主義としての街頭行動の役割がもっと見直されていいのではないか。

(二〇〇六年七月十六日記)






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