もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第84回 「平壌行き」が一転「パリ行き」に


パリ滞在中に訪れたサクレ・クール寺院。観光客でにぎわっていた(1970年4月。筆者撮す)




 「北朝鮮の平壌に行くつもりがパリにきてしまったって。パリから見れば、平壌は地球の裏側じゃあないか。いったいどうしたんだ」
 朝日新聞パリ支局を訪れた私に、牟田口義郎支局長はそう言って目を見張った。一九七〇年(昭和四十五年)四月二十四日のことである。

 一九六九年暮れのことだ。編集局内で、政治部次長の今津弘氏(その後、論説副主幹、調査研究室長を歴任)に声をかけられた。「岩垂君、頼みがある。ご苦労さんだが、平壌に行ってきてくれないか」。他の部からの突然の依頼にびっくりしたが、「頼み」の内容は次のようなものだった。
 一九七〇年には、安保問題が大きな政治課題となるだろう。六〇年に大混乱のうちに締結された新日米安保条約が、七〇年六月二十三日に十年の固定期限が切れるからだ。条約を自動延長するか、破棄するかをめぐってまた与野党の激突も予想される。このため、政治部を中心に七〇年春に安保問題に関する企画を計画している。そのなかで、近隣諸国、とくにアジアの隣国がこの条約をどうみているかを紹介したい。そこで、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に行き、この国の見解を取材してきてほしいんだ。
 当時は(今もそうだが)、日本と北朝鮮とは国交がなかった。したがって、両国間での人の往来はなく、日本政府はこの国への渡航を禁止していた。だから、新聞社が記者を「北」に派遣する手だてはなかった。今津次長は言った。「君は一度、この国に招かれて入国しているから、もしかしたら入れてもらえるかもしれない。再挑戦してもらえないか」
 すでに書いたように、私は一年数カ月前の一九六八年九月に毎日、読売、共同通信の記者とともに北朝鮮を訪れていた。

 日本での北朝鮮の窓口となっていた在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)国際局に相談すると、「平壌の朝鮮対外文化連絡協会(対文協)に入国申請の電報を打つように。その際、共和国政府の信頼が厚い著名人の推薦があると有効的かもしれない」といわれた。
 そこで、取材先の一人で個人的にもお付き合いいただいていた、日朝協会の畑中政春理事長に推薦の電報を打ってくれるよう頼むと、意外にも断られた。畑中氏は第二次世界大戦中の朝日新聞モスクワ支局長。独ソ戦を伝えるそのモスクワ電は内外の注目を集めた。戦後は東京本社外信部長に就任するが、連合国軍総司令部(GHQ)によるレッドパージで退社を余儀なくされた。そうした過去のいきさつもあって、畑中氏としては、かつて勤務していた新聞社からの依頼に気が乗らなかったということであろうか。それとも、ほかに理由があったのだろうか。
 そんなこともあって、私は、何度も訪朝の経験がある岩井章・総評事務局長に推薦の電報を打ってくれるよう頼んだ。岩井氏は快く引き受けてくれた。

 私自身、そう期待していなかった。ところが、「岩垂記者を招待する」との電報が、対文協から届いたのである。七〇年二月下旬のことだ。「招待時期は四月下旬」とあった。
 私はさっそく渡航準備を始めたが、その最中に私の意気込みを一気に膨らませる事件が起きた。「よど号事件」である。
 この年三月三十一日、反代々木系の赤軍派学生九人が羽田発福岡行きの日航機「よど号」を乗っ取り、機長に北朝鮮行きを命じた。同機は韓国の金浦空港に着陸、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとなって同機に乗り込んだ。同機は四月三日、北朝鮮の平壌に到着し、山村次官は犯人たちを残して帰国した。
 この事件は内外に衝撃を与えたが、私は胸がわくわくするのを抑えることができなかった。「私の平壌行きは、なんとタイムリーな訪朝だろう。向こうに着いたら、直ちに赤軍派学生にインタビューしよう。大スクープ間違いなしだ」

 四月十六日、私は羽田から日航機でモスクワへ向かった。モスクワの北朝鮮大使館でビザ(入国査証)を受け取り、そこから平壌行きの航空便に搭乗する予定だった。
 ところが、である。北朝鮮大使館に対文協からの電報を提示してビザの申請をすると、「岩垂記者の招待は取り消された」と通告された。あまりのことに、私は「今さらそんなこと言われたって」と仰天してしまった。朝日新聞モスクワ支局の木村明生氏(その後、モスクワ支局長、調査研究室主任研究員を経て青山学院大教授)が大使館に対し、本国と連絡をとってくれるようかけ合ってくれた。東京では、社会部が、朝鮮総連に事態の打開を要請するなど奔走してくれた。
 しかし、ウクライナホテルに泊まりながら一週間粘ってもビザは発給されなかった。モスクワ滞在が認められる通過ビザの期限は一週間。ついに、あすにはソ連を出国しなくてはならない、という事態に立ち至った。
 しかし、羽田行きの航空便はない。というのは、当時は日航とソ連のアエロフロートの間で羽田―モスクワ間共同運航が始まったばかりで、しかも週二便。次の羽田行き便を待っていては通過ビザが失効してしまう。ならば、ノービザで入国できる国に向けて直ちに出国する以外にない。万事休す。かくして、私は四月二十三日、モスクワを離れ、フランスのパリに向かった。

 北朝鮮はなぜ、私の招待を取り消したのか。大使館員にいくら聞いても説明はなかった。そこで、類推するほかなかったわけだが、思い当たるものといえば、やはり「よど号事件」だった。事件直後に日本の新聞記者を受け入れ、学生たちの様子や北朝鮮当局の対応を取材させるのは好ましくない、との判断から、急きょ私の入国許可を取り消したのではないか。
 それに、私が日本を発つ直前のことだが、中国の周恩来首相が四月五日に平壌を訪問し、金日成首相と会談したことも影響していたのではないか。中国と北朝鮮は一九六六年初めから国際共産主義運動のあり方をめぐって意見が異なるようになり、冷たい関係が続いていた。周恩来の訪朝は、こうした両国関係を修復するためのもの、との見方が強かった。いわば、この時期の両国関係は微妙な段階だったと見てよい。そんなこともあって、この時期に西側の記者(つまり私)を入れたくなかったのではないか。私には、そう思われた。

 ともあれ、パリのオルリー空港に着いたのは夕刻だった。すぐ、日航のカウンターへ向かった。出発直前、日航モスクワ支店に「パリでの宿を手配してもらいたい」と頼むと、そこの職員は「オルリー空港へ降りたら日航カウンターに立ち寄ってください。そこの職員にこちらから話しておきますから」との返事。が、カウンターはすでにクローズされ、職員の姿はなかった。日航のパリ支店に電話しても、時間外なのか、応答がない。途方に暮れた。やむなく、空港近くのホテルの扉を押した。

 パリにしばらく滞在し、パリ発モスクワ経由のエールフランスで帰国の途につき、五月五日、羽田に着いた。
 翌日、出社して後藤基夫編集局長(その後、常務取締役)に「平壌には行けませんでした」と報告すると、後藤局長は言った。「そうか。それで、パリから直接帰ってきてしまったのか。ヨーロッパからアメリカを回ってくればよかったのに。旅費を十分持って出たんだから」。そんなに急いで帰国せずに、各地を回って見聞を広めてくればよかったのに、というわけだった。「ゆっくり遊んでくればよかった」と悔やんだが、後の祭り。いまでは、とてもこんなことを言う新聞社幹部はいまい。新聞社は、この時代、まだ余裕があったということであろうか。

 私はその後、北朝鮮当局に対し、機会あるごとに「招待取り消しは納得できない。入国させるという約束を果たすべきだ」とアピールし続けた。その結果、「北」は八年後、ついに約束を果たすに至るのである。

(二〇〇六年七月八日記)






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