もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第22回 憲法は守られているか  新支局長の挑戦 6


岩手県版に載った憲法の続きもの
「山のこなた 憲法の日によせて」



 新聞の全国紙には、たいがい、県版というものがある。すなわち、地方版だ。主として、その 県内のニュースを収録するページである。岩手県だったら、岩手版がそれで、そこに掲載される のは主として同県内のニュース。それを取材し、記事にしているのが県内の通信網だ。
 私が赴任したころの岩手県では、盛岡支局員と、一ノ関、釜石、宮古、北上、水沢の各市に配 置されていた通信局長、それに、大船渡市、久慈市、福岡町(現二戸市)の三カ所に駐在してい た記者が、岩手版の原稿を書いていた。
 新聞界では、昔も今も、県版は、ただひたすらその地方の人々の生活に密着した、いわば“泥 臭い”ニュースをきめ細かく載せていればいいんだ、という考え方が根強い。そうすればするほ ど地元の人たちに歓迎され、読者も増えると信じられている。

 新しく盛岡支局長に着任した松本得三氏は、そうした従来からの県版づくりの考え方にとらわ れなかった。いや、むしろ、それとは全く異なった県版づくりを進めた。一言でいえば、地元に 密着したニュースを載せるのはもちろんだか、同時に全国的視野から県版をつくるというものだ った。
 そうした視点からの企画記事がいくつもあったが、とくに忘れがたいのは、日本国憲法に関す る続きものである。それは、一九六〇年(昭和三十五年)の憲法記念日(五月三日)から始めた 十回にわたる続きもの『山のこなた 憲法の日によせて』だ。当時の新聞としては珍しく、署名 記事だった。
 第一回は「元自衛隊員の“念仏”」。筆者は轡田隆史記者(その後、東京本社社会部を経て論 説委員を歴任。現在、テレビ朝日系番組のコメンテーター、エッセイスト)。農家の三男坊に生 まれた男のモノローグ。三男坊なので家では農地をもらえず、就職しようとしたが、働き口がな く、やむなく自衛隊へ。が、そこになじめずに辞め、職安の世話で職工見習いになった。「自衛 隊では砲班員だったから大砲の引き金引いたことがある。年四回の実弾射撃訓練。一回の訓練で 一発三万円の弾丸が二百七十発、土の中に消えていった。今、オラの月給は七千円だ」
 第二回は小林隼美記者の「金魚の死」。小学校四年のある学級で、みんなが大切にしていた金 魚鉢の水が真っ黒に変わり、金魚が死んでいた。誰かが墨汁を流し込んだためだが、犯人はクラ スのジロ君だった。ジロ君は母子家庭の子で、兄が就職しようとしたところ、お父さんがいない ことを理由に断られた。「くそっ、にいちゃんがなにして悪いんだ」と怒り狂ったジロ君の仕業 だった……。
 第三回は笠原清臣記者(一ノ関)の「スイセン花」。幼稚園に通う途中、交通の激しい、狭い 国道を横切ろうとしてトラックにひかれて亡くなった四歳の女の子の話。「人間を大切にするこ とを忘れたいまの世の中を象徴したような、痛ましい死であった」と同記者は書いた。
 第五回は高橋錬太郎記者(北上)の「『母の日』のない女」。戦争中、「軍属」の名のもとに 慰安婦として狩りだされ、大陸を点々とした女性の物語。故郷に帰っても、ろくに働けない体と あって物乞いして他家の門に立つよりほかなく、流れ流れて、ついに市の老人養護施設に引き取 られる。なんとも悲しい女の一生で、記事についた見出しの一つは「まだ消えぬ戦争の傷跡」。
 そのほか、ここで取り上げられていたのは、村のボスにいじめられる農民、岩手山麓に入植し たもののコロコロ変わる政府の“ネコの目農政”のためにほんろうされる満蒙開拓の生き残り、 酔っぱらいで怠け者の父親に虐待される三歳十カ月の女の子、貧乏のため三畳一間のボロ家に住 む八人家族など。“えらい人”には思いやりのある処置をしながら庶民には厳しい態度で臨む検 察官の話も登場する。

  憲法に関する続きものでありながら、憲法の条文は一つも出てこない。その代わり、極貧の 暮らしや人権侵害にあえぐ底辺の人々が紹介されていた。
 この続きものは支局長の発案だった。支局長は、続きものを通じておそらくこう言いたかった のだろうと私は思う。――憲法第二五条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を 営む権利を有する」、同一四条には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性 別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあ るが、この規定とはほど遠い現実が私たちの周りにある。そのことを、憲法記念日を機に考えて みたい。

 当時、憲法に対する関心は今ほど高くなかった。朝日新聞本紙(全国版)で見ると、五月二日 付の朝刊三面に松下圭一・法政大助教授の寄稿「新憲法の感覚」を、五月三日付朝刊二面に「憲 法秩序の創造」と題する社説と伊藤正巳・東大教授の寄稿「憲法記念日に思う」、同日付夕刊一 面に「憲法記念日を祝う 東京は数カ所で」という三段の雑報を載せている程度だ。日本の社会 の現状を憲法の条文に照らして斬る、といった企画記事はない。まして憲法に関する続きものな ど見当たらない。
 なのに、岩手版は憲法を物差しに日本の現実を考える企画記事に挑戦した。それも続きもの で。そうした県版は当時、他紙を含めほかには皆無だったように私は記憶している。
 松本支局長と政治部で同僚だった熊倉正弥氏も書いている。「(当時)私は各県版をみて、話 題を拾って毎週一回かこみものとして『地方報告』というタイトルの記事を書かされていた…… 憲法記念日には岩手版が『憲法は守られているか』だったか、タイトルはよく覚えていないが (『くらしと憲法』というタイトルだったかも知れないが)、つづきものをのせた。憲法記念の 特集などする地方版はまれであったので、私はここにも松本君の存在を感じた」(『目にうつる ものがまことに美しいから――松本得三氏追想・遺稿集――』)





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