もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第126回 大いなる悲嘆――原水禁運動は再分裂へ

原水禁世界大会で演説する古在由重氏(同時代社刊「古在由重 人・行動・思想」から)。同氏と原水禁運動のかかわりは深く、原水禁運動を論じた「草の根はどよめく」(築地書館刊、1982年)などの著書がある




 一九八四年(昭和五十九年)夏の原水爆禁止世界大会を前にして、共産党が、同党が強い影響力をもつ原水協の吉田嘉清・代表理事と、やはり強い影響力をもつ日本平和委員会の森賢一・事務局長を「独断専行があり、そのうえ、原水禁・総評に屈伏、追随した」と批判したことは、原水協と平和委員会、それに運動関係団体によって構成されていた世界大会準備委員会に混乱をもたらした。

 森氏はこの年六月二、三の両日に開かれた平和委員会の定期全国大会で辞任したが、吉田氏は「責任をとって代表理事を辞めること」という共産党の決定を拒否した。つめかけた報道陣に対し「政党による民主主義と人権への侵害だ。米ソ両国の深刻な核対決をやめさせるには世論の団結した力以外にない。私が他団体との幅広い共闘を進めてきたのもそのためだ」と語った。
 六月二十八日の原水協全国理事会は、さながら「吉田糾弾大会」の様相を呈した。吉田代表理事と代表委員の草野信男氏(病理学者、元東大教授、世界大会準備委員会代表委員)らは「全国理事会の招集権は代表委員会にあり、代表委員会はこの全国理事会を招集していない」として同理事会の無効を宣言し、出席しなかった。翌日、同理事会は吉田氏を代表理事から、草野氏を代表委員からそれぞれ解任、新しい代表理事を選出(代表委員制は廃止)した。

 原水協での役員交代をめぐる混乱は、世界大会準備委員会に飛び火した。というのは、吉田、草野両氏が引き続き原水協の役員であると主張し、準備委に出席したからだ。
 七月十日、東京の日本青年館で開かれた準備委では、吉田、草野両氏と、原水協が両氏に代わる新たな代表として送り込んだ赤松宏一・事務局長、金子毅・代表理事(日高教委員長)が激突した。
 怒号が飛び交う中、吉田氏が「招集権をもつ代表委員の承諾なしに原水協の全国理事会が強行され、会則を改正して私や九人の代表委員を放逐した。言ってみれば、クーデターです。原水協は分裂したんです」と発言すると、赤松事務局長が議長役の田中里子・地婦連事務局長に迫った。「これは、原水協の内部問題です。発言を許した議長に責任をとっていただかなくてはならない。吉田さんの退場を求める」
 この時である。準備委に出席していた準備委代表委員の古在由重氏が発言を求め「吉田君が退場なら僕も退場になる。だいたい同じ考えだからね」と、吉田氏擁護に回った。会場に衝撃が走った。古在氏は高名な哲学者だが、おそらく共産党員だろうと出席者のだれもが思っていたからである。「共産党の広告塔のような存在だった古在氏が党の方針に異を唱えるなんて」。報道陣から驚きの声が上がった(この日の発言が発端となって、古在氏はその後、共産党を除籍される)。

 その後も、準備委は原水協代表権問題で紛糾を続ける。原水協・平和委グループがあくまでも「原水協の役員交代は内部問題だから内政干渉するな」と主張したのに対し、原水禁・総評グループと市民団体の大半は「準備委で運動統一のために尽力してきた人が原水協をやめさせられるとは納得できない」と、吉田・草野両氏を擁護したからである。市民団体の中には「原水協での代表権争いが準備委にまで持ち込まれるのは、はた迷惑。原水協内で解決してほしい」という声が強かった。
 ともあれ、原水協の役員交代問題がもたらした混乱により、世界大会の準備作業はストップしてしまい、開催不能といった事態も予想されるに至った。このため、危機感をつのらせた市民団体の間に「ことここに至ったからには、市民団体の主催で世界大会を開こう」という意見が台頭、密かにそれに向けての動きが始まった。
 こうした緊迫した状況の中、草野、吉田両氏は「これ以上混乱を長引かせるのは忍びがたい」として七月二十日に開かれた準備委に第三者を通じて準備委の役員を辞任する旨を伝えた。両氏の辞任通告を事前に知っていたのはごく一部の市民団体関係者と準備委の学者・文化人だけで、両氏の辞任表明は準備委出席者に衝撃を与えた。
 かくして原水協代表権をめぐる争いにようやく終止符が打たれ、世界大会は八月一日からの国際会議(東京)で幕を開けた。辛うじて「統一」を保つことができたわけだが、その内実は「統一」とは名ばかりで、大会には終始、とげとげしい雰囲気がただよっていた。大会の舞台裏では、「吉田・草野問題」をめぐって原水協と原水禁の対立が一層深まっていたからである。

 そればかりでない。「吉田・草野問題」は、八五年以降にも持ち越された。
 まず、八五年は、この問題が尾を引いて統一世界大会の準備作業が紛糾に次ぐ紛糾という事態になった。世界大会の開催を目指す関係団体が「原水爆禁止関係団体懇談会」を発足させることができたのは五月十四日。
 集まったのは、原水協、平和委員会、原水禁、総評、中立労連、日本生協連、地婦連、日青協、婦人有権者同盟、日本山妙法寺、日本被団協の十一団体。懇談会はやがて準備会と名前をえる。そこでは「世界大会は実行委員会が主催するものとする」との合意が成立するが、その実行委をどんな団体、個人で構成するかをめぐって意見が対立した。
 原水協・平和委が「十一団体で一致できる団体、個人で」と主張したのに対し、原水禁・総評は「十一団体が推薦する団体、個人で」と主張した。原水協・平和委があくまでも「十一団体で一致できる団体、個人で」にこだわったのは、原水協を“追放”された吉田、草野両氏と、両氏が両氏を支持する人たちとともに設立した「平和事務所」のメンバーが実行委に加わってくることを恐れたためだ。これに対し、原水禁・総評は「特定の団体、個人を選別、排除すべきでない。実行委は幅広い団体、個人で構成すべきだ」と主張し、双方の歩み寄りはみられなかった。
 結局、市民団体が世界大会開催予定日の六日前の七月二十七日に、「さしあたり、十九団体の代表で実行委を発足させる」との提案を行い、双方がこれをのんで、やっと実行委が結成された。まさに綱渡りのような迷走ぶりだった。この結果、八五年世界大会は辛うじて「統一」を保つことができた。

 しかし、八六年は、七月半ばになっても世界大会を主催する実行委を結成できなかった。前年と同じ問題、すなわち実行委の構成問題がまた蒸し返され、原水協・平和委と原水禁・総評の間でついに合意をみることができなかったからだ。このため、統一世界大会はついに開催不能となり、原水協、原水禁はそれぞれ独自の世界大会開催へと向かった。間に立つ市民団体関係者や被爆者団体関係者の落胆と悲嘆は大きかった。
 結局、紛糾の底流にあったのは「吉田・草野問題」で、両陣営はこの問題をめぐって袂を分かったといってよかった。かくして七七年に十四年ぶりに統一を回復した日本の原水爆禁止運動は、それから九年にして再び分裂してしまったのである。
                                      (二〇〇七年十月十二日記)

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