もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第123回 現憲法に生きる自由民権期の憲法草案

「1993年5月1日付の朝日新聞夕刊




 明治前期の自由民権運動の最中に民間の手によって書かれた憲法草案のうち、民主的な規定をもつものとして「五日市憲法草案」と「憲法草稿評林」を紹介したが、もう一つを紹介しよう。
 それは、植木枝盛起草の『日本国々憲案』である。植木は高知市に生まれ、一八七七年(明治十年)に二十一歳で民権結社の立志社に入り、以後、自由民権理論家、ジャーナリストとして知られた。一八九〇年(明治二十三年)、第一回衆院選挙に当選するが、二年後、三十六歳の若さで亡くなった。その彼が、一八八一年(明治十四年)夏に高知市の自宅で書き上げたのが、この『日本国々憲案』だった。

 これは、二百二十条からなるが、人権の保障を眼目とし、そのための徹底した規定を設けているのが特徴とされる。
 そうした規定は実に三十数カ条に及ぶ。例えば、こうだ。
  日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト雖モ生命ヲ奪ハサルヘシ(第四十五条)
  日本人民ハ拷問ヲ加ヘラルヽコトナシ(第四十八条)
  日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス(第四十九条)
  日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信スルモ自由ナリ(第五十条)
  日本人民ハ自由ニ結社スルノ権ヲ有ス(第五十五条)
  日本人民ハ何等ノ教授ヲナシ何等ノ学ヲナスモ自由トス(第五十九条)
  日本人民ハ日本国ヲ辞スルコト自由トス(第六十三条)
  日本人民ハ正当ノ報償ナクシテ所有ヲ公用トセラルコトナシ(第六十七条)
  日本人民ハ兵士ノ宿泊ヲ拒絶スルヲ得(第七十三条)

 そればかりでない。人権保障の担保として、人民の抵抗権と革命権を認めている。
  日本人民ハ凡ソ無法ニ抵抗スルコトヲ得(第六十四条)
  政府国憲ニ違背(いはい)スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得(第七十条)
  政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得 政府威力ヲ以テ擅恣暴虐  (せんしぼうぎゃく)ヲ逞(たくまし)フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スル コトヲ得(第七十一条)
  政府恣(ほしいまま)ニ国憲ニ背キ擅(ほしいまま)ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国 ノ旨趣ヲ妨クルトキハ日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得(第七十二条)
 政府が憲法に違反した政治をするならば、これに従わなくてもよい、政府が悪政をほしいままにするならば国民は兵器をもってこれに抵抗する権利があるし、これを転覆し、新しい政府をつくる権利があるというのだ。なんともラジカルな規定である。このような内容をもつ私擬憲法草案は他にない。
 
 こうした憲法草案を書いた植木枝盛を生んだ高知とはどんなところだろう。そんな興味もあって、一九八七年十一月に高知市で第三回自由民権百年全国集会が開かれた際、同市を訪れた。植木枝盛旧邸や墓を回り、この類い希な自由民権家の生涯に思いをはせた。

 ところで、一九八〇年から始まった、自由民権百年を記念する運動を取材する中で私はさまざまなことを学んだが、最も印象に残ったのは、自由民権期に書かれた私擬憲法草案の精神が現行の日本国憲法に宿っていることだった。そのことを知って、当時、私は少なからず興奮したものだ。

 周知のように、日本敗戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、日本政府に憲法改正を命令した。このため、日本政府側は松本蒸治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会が改正案づくりを始め、憲法改正要綱(松本案)をGHQへ提出した。が、それは「(大日本帝国憲法の)第三条ニ『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』トアルヲ『天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス』と改ムルコト」とあるなど、天皇主権の大日本帝国憲法(明治憲法)を基本とし、多少の修正を加えたものでしかなかった。
 GHQは「これでは、主権はこれまで通り完全に天皇に属することになり、主権についての観念には基本的に変更が加えられていない」と批判、結局、日本政府には任せておけないと、自ら憲法改正案を起草し、日本政府に手交する。一九四六年二月のことである。GHQ案をしぶしぶ受け入れた日本政府はこれを基に日本案をつくり、これが現行の日本国憲法となる。
 政府の動きとは別に、このころ、日本社会党、日本共産党、日本自由党、日本進歩党などの政党、日本弁護士聯合会、帝国弁護士会、憲法研究会などの諸団体や個人が新しい憲法草案を発表していた。GHQは憲法草案起草にあたって、このうちとくに憲法研究会の草案を参考にしたとされる。
 憲法研究会とは岩淵辰雄(政治評論家)、杉森孝次郎(元早大教授)、鈴木安蔵(憲法学者)、高野岩三郎(統計学者)、室伏高信(評論家)、森戸辰男(社会学者、のちに文相)、馬場恒吾(政治評論家、のちに読売新聞社長)らからなる文化人グループ。新生日本の憲法はどうあるべきかと議論した結果、憲法草案をまとめた。起草にあたったのは鈴木安蔵だった。
 現行の日本国憲法と憲法研究会案を比べると、権利条項に似たような条文を見つけることができる。例えば、「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利を有ス」(憲法研究会案)と「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有す」(日本国憲法第二十五条)である。また、「国民ハ労働ノ義務を有ス」(憲法研究会案)に対し、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」(同第二十七条)といった具合だ。明らかに、そこには類似がみてとれる。

 鈴木安蔵は、憲法研究会案の起草にあたり、明治の自由民権期に書かれた私擬憲法草案を参考にした。私は、そのことを鈴木本人から聞いた。自由民権百年全国集会実行委員会主催の第一回全国集会が一九八一年十一月に横浜市の神奈川県民ホールで開かれた時である。
 これに参加した鈴木は第一分科会で「日本国憲法制定前後」と題する報告をしたが、その中で「新しい憲法を考えるとき、私が参考にしようと思ったもののなかに、自由民権運動時代のいわゆる私擬憲法草案があります。ひそかに憲法に擬すという意味であります。こんにちでは、これがたくさん発見されてみなさんの前にありますが、終戦前の段階で、そのうちの約三分の二、ないし五分の三ぐらいは研究者が直接見ることができました」と述べた。

 こうした一連の経緯を、私はかつてGHQ草案の起草に直接かかわった人から聞いてみたいと願っていた。そうした機会がついに訪れた。GHQ草案の起草者の一人であるチャールズ・ケーディス元GHQ民政局次長が、一九九三年四月二十五日のテレビ朝日系「サンデープロジェクト」に出演するため来日したからだ。
 この番組で、ケーディスはGHQ草案の起草作業の内幕を語ったが、朝日新聞社は同月二十七日、彼を招き、話を聞いた。私もそれに同席させてもらったが、彼はそこで「日本の民間グループの一つだった憲法研究会の憲法草案が、GHQの草案を起草するうえで役に立った」と述べた。
 こうした証言を当事者から聞きながら、私は思った。「日本国憲法は占領軍から一方的に押しつけられたもの、という人がいるが、決してそうではない。日本国憲法には、自由民権期の民主的な憲法草案の精神が取り入れられているのだ」と。
 私は、直後の五月一日付朝日新聞夕刊のコラム「週間後記」に「現憲法に宿る自由民権の思想」と題して、鈴木安蔵の果たした役割や、ケーディスの証言を紹介した。が、読者からは何の反応もなかった。

 それから十四年。今、にわかに鈴木安蔵がマスメディアでフットライトを浴びている。新聞で取り上げられるばかりでない。鈴木を主人公にした劇映画「日本の青空」も制作され、全国で上映されている。
 こうしたことの背景にあるのは、改憲問題である。「戦後レジームからの脱却」などと唱えて改憲に突っ走る安倍政権に危機感を高めた人たちが憲法擁護のために生涯をささげた先人を探しているうちに、忘れられていた鈴木を“発見”したということだろう。

(二〇〇七年九月十一日記)


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