もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第120回 よみがえる自由民権運動

第1回自由民権百年全国集会に向けてつくられた冊子。表紙には、東京都八王子に伝わる車人形の写真と、植木枝盛の憲法草案の一部があしらわれていた(1981年10月発行)




 「自由民権百年の運動をやっているんだ。明治時代の自由民権運動がピークを迎えた時から、来年でちょうど百年になるからね」
 一九八〇年(昭和五十五年)十二月二十五日。私は東京都八王子市に住む歴史家の色川大吉氏を訪ねた。三日前に反戦市民組織「日本はこれでいいのか市民連合」が発足、色川氏が作家の小田実氏とともに代表世話人に就任したので、人物紹介の「ひと」欄に取り上げようと思い立ったのだ。取材が終わった後の雑談の中で色川氏がふともらしたのが、この一言だった。
 明治期に自由民権運動と呼ばれる運動があったことは、高校で習った日本史などを通じて知っていた。が、それに関する知識としては、暴漢に刺されて重傷を負った、土佐出身の自由党総理・板垣退助がその時「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと伝えられている、ということぐらいだった。それだけに、色川氏の一言に、私の中で好奇心が頭をもたげた。「自由民権運動から百年? それを記念する運動? これは面白そうだな」。私はたたみかけるように、自由民権百年の運動についても話してくれるよう色川氏に頼んだ。  

 これを機に、私は自由民権運動に関する文献を読んだり、色川氏ら研究者から話を聞いたり、あるいは各地で繰り広げられていた自由民権家の顕彰運動を取材することで、この運動について理解を深めていった。
 その中で分かってきたこと――自由民権運動とは、一言でいうと、日本の国民が自由、人権、民主主義、民族独立などを自覚的に闘いとろうとした最初の運動だった。具体的には、「国会開設」「憲法制定」「税金の軽減」「地方自治」「不平等条約撤廃」などの要求を掲げて闘われた国民的規模の運動だった。
 一八七四年(明治七年)に板垣退助らが民撰議院(国会)設立建白書を政府に出したのが運動の始まりとされているが、その後、政府による激しい弾圧にもかかわらず全国に波及し、一八八一年(明治十四年)には最高潮に達した。このため、政府高官をして「フランス革命の景況に至るやもしれず」といわしめたほどだった。
 が、この年をピークに運動は下降に向かう。運動の高揚に危機感を抱いた政府側が民権派に先手を打って、この年、一八九〇年(明治二十三年)に国会を開設するとの詔勅を発表したからである。政府が民権派の機先を制したのだ。
 その後、運動の担い手も変わる。それまでは士族や豪農商層が主体だったが、農民がとって代わる。運動は政府による強圧政策もあって次第に先鋭化し、明治二十年代初めまで続く。
 結局、運動は敗北に終わった。なぜなら、一八八九年(明治二十二年)に発布された大日本帝国憲法は、天皇を唯一の主権者であると規定するなど、民権派が求めていたものとはおよそ正反対の内容であったからだ。しかし、自由民権運動がなければ憲法発布もなかったとも考えられるわけで、自由民権運動こそ、日本の立憲政治をつくり出した力だった、という見方が歴史学会で定着している。

 それにしても、昭和の今、なぜ自由民権なのか? 私の問いに色川氏はこう答えた。
 「今の日本と百年前の日本が薄気味悪いほどよく似ている。百年前、明治政府は市民的自由を犠牲にして国益優先の道を歩もうとした。富国強兵への道だ。これに対し、民衆は、国権よりも人民の権利を優先させよ、とその前に立ちはだかった。これが自由民権運動だった。しかし、民権側が敗れ、富国強兵の日本が行き着いた先が戦争だった」
 「今の状況は、そのころとそっくり。支配者たちは、また軍事化の道を歩もうとしている。百年前、自由と民主主義に命をかけた人民の情熱と悲願を現代によみがえらせ、右傾化の時流に抗したい」
 百年前の自由民権運動の精神と情熱と行動力を現代によみがえらせようというのだ。私は、がぜん興味を覚えた。

 一九八〇年十一月には、自由民権百年全国集会実行委員会が結成された。参加したのは、歴史学研究会、歴史教育者協議会、日本史研究会など全国的な学会をはじめ各地で自由民権関係の史実の掘り起こしを続けている市民グループなど約六十団体。委員長は遠山茂樹・横浜市立大名誉教授。代表委員に色川大吉、大石嘉一郎、上條宏之、小池喜孝、後藤靖、中沢市朗の六氏。
 
 実行委員会による綿密な準備を経て、全国集会は八一年十一月二十一、二十二の両日、横浜市の神奈川県民ホールで開かれた。全国から集まってきた研究者、教員、学生、一般市民ら約四千人が会場を埋めた。会場は熱気に包まれ、参加者たちは、自由民権運動の歴史的意義について論じ合った。
 なかでも参加者が激しい拍手を送ったのは、演壇に並んだ、秩父事件(一八八四年、埼玉県秩父で農民らが借金の据え置きなどを求めて蜂起した事件)など自由民権期に各地で起きた激化事件で殉難した民権家の遺族約七十人に対してだった。この日、実行委員会がとくに招いたもので、全国集会はこの人たちの先祖を自由民権運動の先駆者として顕彰したのだった。それまで、一世紀にわたって「暴徒」とか「逆賊」とかのレッテルを張られてきた民権家とその子孫が名誉を回復した瞬間だった。

 集会は閉会にあたって「声明」を発したが、そこには、こう述べられていた。
 「私たちは、それぞれの地域における歴史的研究、民衆の掘りおこしの運動の経験と成果を交流し、その成果が大きくかつ貴重なものであることを確認した。そして、沖縄や北海道の問題、被差別部落や女性の被差別の問題、朝鮮の問題を、ひろく人権と自由の歴史としてとらえる必要があることを学んだ。またその運動が、今日、地域住民の歴史意識を変革する力となり、同時に自由民権運動の研究を一段と前進させる原動力となっていることをたしかめ合った」
 「私たちが自由民権運動の歴史に深い関心をよせ、その真実を知ろうとするのは、今日の憲法改訂の企てや教科書検定の動向にあらわれている教育の自由への迫害、軍事力増強の動きにみられる戦争の危険に、深刻な憂慮をいだいているからである。私たちは、今日その危機が切迫しているからこそ、日本における自由と民主主義のたたかいの原点に立ちもどることが大切であると考え、自由民権と現代の問題について真剣に討議した。そして、この百年間の自由と民主主義のための、輝かしいが苦難にみちたたたかいの歴史を、国民の共有財産として生かし、また次の世代に継承していくことの重要さを、あらためて認識した」

 激化事件とされる群馬事件、加波山事件(茨城県)、秩父事件、飯田事件(長野県)などが起きたのは一八八四年(明治十七年)だが、それからちょうど百年にあたる一九八四年の十一月二十四、二十五両日には、東京の早稲田大学で第二回自由民権百年全国集会が開かれ、全国から二千三百人が集まった。
 さらに、一九八七年十一月二十一、二十二両日には、高知市で第三回自由民権百年全国集会が開かれた。
 自由民権百年の運動は、およそ七年間にわたって繰り広げられたのである。

(二〇〇七年八月十五日記)


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