もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第115回 一変した平壌の空気――北朝鮮再訪@

子どもたちは登校も下校も集団で行う。しかも男女別々に(1978年11月、平壌市内で)=中井征勝写真部員写す




 一九七八年(昭和五十三年)十月三十一日午後六時四十分、私と中井征勝・東京本社写真部員は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌空港に降り立った。日はとっぷり暮れて、あたりは暗かった。と、女の子たちが寄ってきて、私たちに花束を差し出した。それを受け取りながら、私は感無量だった。日本とは国交のない国、北朝鮮の地を再び踏むことになるとは思っていなかったからである。最初の訪問から十年がたっていた。
 
 最初の訪朝は一九六八年九月だった。毎日、読売、共同、朝日の報道四社からなる日本記者団の一人としての訪朝だった。この国の建国二十周年記念行事を取材するための訪朝で、国交がないにもかかわらず特別に入国を認められたのだった。この時の取材体験は第二部で紹介した。
 二度目の訪朝には、次のような経緯があった。
 これもすでに書いたことだが、一九七〇年春、朝日新聞社は安保問題に関する企画の一環として北朝鮮政府の日米安保条約に対する見解を取材しようと計画し、訪朝経験のある私の入国を認めるよう北朝鮮の対外文化連絡協会(対文協)に申請した。許可が出たので、私が北朝鮮に向かったところ、経由地のモスクワでなぜか突然、入国を取り消され、結局、予定していた取材はできなかった。
 私は、理由も示さず入国を取り消されたことがなんとしても納得できず、「国際的な儀礼に反する」として対文協に約束を果たすよう要請、日本を訪れた北朝鮮代表団にも約束の履行を迫ったが、いずれもなしのつぶてだった。でも、この国が七八年九月に建国三十周年を迎えるとあって「もしや」との思いから、この記念行事を取材させてほしいと入国許可の申請をしてみた。が、記念行事が過ぎても音沙汰がなかった。
 ところがである。十月中旬、突然、対文協から在日本朝鮮人総連合会を通じて招待の電報が届き、思いもかけず訪朝が実現したのだった。「約束」は果たされたのである。

 私たちは成田を発ち、北京へ。そこから朝鮮民航機で平壌に入った。そのことに、私はアジア情勢の変化を感じていた。というのは、十年前は、アンカレジ―コペンハーゲン―モスクワを経由して、平壌にたどりついたからだ。いわば地球を一周しなければならなかった。北京経由がかなわなかったのは、北朝鮮と中国が冷え切った関係にあったからで、この時、北朝鮮は入国ビザを北京でなくモスクワで受け取るよう日本記者団に指示してきたほどだった。しかし、今回は北京経由で入国できた。このことから、朝中間が友好的な関係に戻ったことがうかがえた。

 ともあれ、私たちはそれから十五日間にわたり平壌のポトンガン(普通江)ホテルを拠点に建国三十周年を迎えたこの国の実情を垣間見たわけだが、とくに印象に残ったことのいくつかを書く。
 まず、平壌を包む空気が十年前のそれとすっかり変わっていて驚いた。十年前の平壌の空気はピリピリしていた。それは、身が引き締まるような緊張感に包まれていたといってよい。街のいたるところに激烈な反米スローガンがあり、ところどころに張られたポスターにも、朝鮮人民がアメリカ兵をやっつけるといった図柄が目立った。街頭では軍服姿の人民軍兵士が目立ち、平壌の中心にあるモランボン(牡丹峰)公園を訪れたとき、樹木の陰では、銃をもった兵士の姿が見え隠れしたものだ。
 子どもたちの課外活動のセンターである平壌学生少年宮殿では、少年たちがアメリカ兵の人形を標的にして、模型の銃で射撃訓練をしていた。案内の係員は「わが国では、すべての国民が一当百の精神でやっています」と誇らしげに説明したものだ。国民一人ひとりが、それぞれ百人の米兵を倒す意気込みで国防にあたっている、という意味だった。
 取材にあたっても制限が厳しかった。北朝鮮側はとくに写真撮影には神経を尖らせていて、撮っていいのは文化施設、スポーツ施設と子どもたちぐらいといった有り様だった。
 まさに、平壌は臨戦態勢にある、といった様相であった。
 当時、こうした緊迫感に驚いたものだが、いまから思うと、それは、プエブロ事件からまもない時期で、朝鮮半島に軍事的緊張が高まっていたからだと思う。この事件は一九六八年一月、米軍の情報収集艦プエブロが日本海で北朝鮮軍にだ捕され、艦長以下の乗組員が抑留された事件だ。

 ところが、十年後の平壌の空気は一変していた。時は晩秋から初冬にあたり、空はあくまでも高く、澄んでいた。黄色くなった街路樹のイチョウやプラタナスの葉が、風もないのにハラハラと舞い落ちる。その落ち葉をかき集めて焼く光景があちこちで見られた。紫の煙が、空に向かって静かに立ちのぼる。なんとも穏やかな風景だった。
 夕方、ホテルから都心に向かう途中、道路でローラースケートに興じる男の子たちを見かけた。また、滞在中、ホテルの前の木立の間や、ホテルの横を流れるポトンガンの岸で、カンバスに向かう学生たちの姿を見かけた。ポトンガンではまた、男女学生が教官の指導でカヌーの練習に励んでいた。テドンガン(大同江)のほとりを歩く機会があったが、川面にはアベックが乗ったボートが浮かんでいた。 
 そして、今回も平壌学生少年宮殿を訪れたが、こんどは子どもたちによる射撃訓練の見学はなかった。
平壌駅前の百貨店ものぞいてみた。五階建てで、各階とも買い物客で混んでいた。
 街中に掲げられたスローガンも、激しい調子の反米的な文言は目につかなかった。よく目にしたものといえば「朝鮮労働党万歳」「金日成主席万歳」「自らの資源、技術で第二次七カ年計画を遂行しよう」といったものだった。
 こうした見聞で見る限り、あの十年前のピリピリした空気は影をひそめ、まずは平穏な市民生活が営まれているとの印象を受けた。

 とはいうものの、平和な日本の都市の空気とは随分違うのも確かだった。平穏な空気の底に、この国特有の張りつめた空気がただよっていたといえようか。そのことを私たちは写真撮影を通じて感じた。
 写真撮影については、十年前に比べぐんと制限がゆるやかだった。軍事施設関係のものは絶対禁止だったが、その他のものについては原則として「自由」だった。ただし、許可を得ることが必要とされた。だから、車で街を走っていて、あ、これはいけるなと思ってもシャッターを切るわけにはいかなかった。
 例えば、広い道路の歩道で落ち葉を集めるなど、清掃に精をだしていたこどもたち。赤旗を立て、真っ黒になって道路の拡幅工事をしていた若者たち。協同農場での農場員総出の白菜の収穫風景。いずれも「関係機関の許可が必要」との理由で撮影はダメだった。
 結論的にいえば、スナップ写真を撮るのはほとんど不可能だったということだ。だから、同行の中井写真部員にしてみれば「これでは仕事にならない」日々だった。そこで、どうしても自然のままのスナップ写真を撮りたいと、中井部員はある朝、早起きしてホテルを出ていった。ホテル周辺で通勤、通学風景を撮ろうと思いたったのだ。が、しばらくすると、「やっぱりダメでした」と帰ってきた。中井部員によると、ホテルに近い道路で通勤途中の人や登校途中の子どもにカメラを向けていると、どこからともなく出てきた数人の私服の男たちに取り囲まれ、「ホテルに帰りなさい」とうながされたという。
 外国人の動向は絶えずマークされていたということだろうか。いずれにせよ、外国人の滞在者に対し、当局が警戒の目を光らせていることをうかがわせた。
 
 中井部員と私は、一年前の一九七七年にソ連各地を五十日近く一緒に取材で回った経験があった。写真撮影という点でみると、北朝鮮はソ連よりはるかに制限が厳しいというのが二人の一致した感想であった。
 当時の北朝鮮にただよっていた張りつめた空気の一端を以上の例で分かっていただけたのではないかと思うが、いずせれにせよ、こうした緊張感のよってきたるところと言えば、やはり、この国が当時、軍事境界線(三十八度線)をへだてて、米国、韓国と対峙していたからだろう。当時はなお東西冷戦下で、とりわけ朝鮮半島では南北が厳しく対立していたのである。

(二〇〇七年六月十八日記)


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