もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第112回 統一世界大会へ――電撃的な「77合意」

原水協、原水禁両トップの合意を伝える朝日新聞(1977年5月20日付朝刊)




 それは、まさに衝撃的だった。
 一九七七年(昭和五十二年)五月十九日夕方、各新聞社の平和運動担当者に記者会見の連絡があり、同日午後七時から、東京・芝の日本女子会館で、原水爆禁止日本協議会(原水協)の草野信男理事長と、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の森滝市郎代表委員の共同記者会見が行われた。それまで決して同席することもなかった原水協と原水禁の両トップの共同記者会見も衝撃的なら、共同会見で発表された両組織トップによる合意書の内容も実に衝撃的なものであった。

 合意書
 原水爆禁止日本国民会議 森滝市郎
 原水爆禁止日本協議会 草野信男
 の両者は、統一問題について一九七七年五月一九日、東京において話しあい次の合意に達した。
 一、今年八月の大会は統一世界大会として開催する。
 二、国連軍縮特別総会にむけて、統一代表団をおくる。
 三、年内をめどに、国民的大統一の組織を実現する。
 四、以上の目的を達成するために、ほうはいと起っている、五氏アピール、日青協―地婦連、宗教・婦人等のNGO連絡委員会などの広範な国民世論を結集し得るような、統一実行委員会をつくる。
 五、原爆犠牲者三十三回忌にあたって、原水爆禁止運動の原点に帰り、核兵器絶対否定の道を歩むことを決意する。
 メモ
 ――以上の合意の上に立って、禁・協が随時連絡協議を行う。
 ――原発問題に関する討議の場が、この大会の中で、必らず、設けられること。  

 これまで、同じ天をいただかない“犬猿の仲”であった原水協と原水禁が統一して世界大会を開く。そのうえ、年内をめどに統一組織をつくることで合意したというのだから、報道陣が色めき立ったのも当然だった。
 日本の原水爆禁止運動を牽引する組織として原水協が生まれたのは一九五五年のことだが、六三年に「いかなる国の核実験にも反対する」問題と、米英ソ三国によって結ばれた部分的核実験禁止条約をどうみるかといった問題をめぐって内部に対立が生じ、社会党・総評系団体が原水協を脱退し、六五年に新たな運動組織の原水禁を結成した。社会党・総評系団体が抜けた原水協では、共産党系団体が主導権をにぎった。政治的には中立の立場にあった全国地域婦人団体連絡協議会(地婦連)や日本青年団協議会(日青協)などの市民団体は、対立に嫌気がさして原水協から脱退した。
 分裂後の原水協と原水禁の対立、抗争は激烈を極めた。原水協は原水禁を「分裂組織」と非難し、その存在すらも認めず、話し合いはもちろん、同席することも拒んだ。両組織ともそれぞれ世界大会を開催し、海外代表の招致にあたっても多数派工作でしのぎをけずった。とくに原水協は海外代表が双方の世界大会に参加することを認めなかった。「協」「禁」の対立は海外にまで知られ、海外代表を戸惑わせた。
 
 運動統一に向けての努力がなかったわけではない。まず、一九七五年に社会党、総評、中立労連(以上、社会党・総評系)、、共産党、日本平和委員会、日本科学者会議(以上、共産党系)、日本被団協(被爆者団体、中立)の七団体で「原水爆禁止運動の統一わめざす七者懇談会」が発足、話し合いを進めたが、団体間の対立が激しく、まとまらなかった。さらに、七七三月、原水協に圧倒的な影響力をもつ共産党と、原水禁の中核である総評との間で「運動の発展のため過去の行きがかりを乗り越え、より高い見地にたってより広い階層の人びとを結集する新しい統一組織体をつくることをめざし、具体的方策をすみやかに検討する」との合意をみた。
 しかし、当事者の一方である原水協がこれを歓迎したのに対し、もう一方の当事者の原水禁が「頭越しの合意だ。それに、分裂の間に両組織の運動方針が異なったものになってしまって、いまさら組織統一は無理。いま必要なのは運動の統一なのだから、まず共同行動を」と、合意反対の態度をとり、「共総合意」は暗礁に乗り上げた。

 それでも、一転して「協」「禁」両組織トップによる握手(合意)が実現したのは、なんといっても背景に運動の統一を強く願う国民世論があったからだと私は思う。そのことは、運動分裂後、分裂を悲しみ、憂い、ひたすら運動の統一を願う投書が、新聞の投書欄にひっきりなしに寄せられていたことからも明らかだった。
 なかでも、この年の二月二十一日に発表された「広島・長崎アピール」が両組織トップの握手に大きな影響を与えたと、私は考える。これは、評論家の吉野源三郎、中野好夫、日本学術会議会員三宅泰雄、元日本女子大学長上代たの、日本山妙法寺山主藤井日達の五氏が連名で発した訴えだった。
 それは、この年夏に広島と長崎で国際NGO主催で開かれる予定の「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」を取り上げ、「被爆の実相と核兵器の恐ろしさを、徹底的に世界中に知らせようとする企てが、本年、被爆の現地において行われることは、つづいて来年、画期的な国連軍縮特別総会が開かれることと併せて、この上なく重要な意義をもつものと私共は考えます。核兵器廃絶の世界世論を来年の軍縮特別総会に大きな力として反映させるため、シンポジウムは是非とも成功させなければならない」とし、「これまで、核兵器に対するあらゆる反対運動を無視するかのように、とどまるところを知らずに高まってきた核軍拡競争を、今こそくいとめるために、平和を求める日本のあらゆる個人・団体・諸組織が、過去の行きがかりを乗り越え、この成功ため力を一つに合わせること――新たな国際的機運はそれを切実に求めています」と述べていた。
 要するに、拡大の一途をたどる核軍拡競争を阻止するために、そして間近に迫った国際シンポジウムを成させる功ためにあらゆる人々が小異を捨てて大同につけ、という訴えだった。これが、草野、森滝両氏を揺り動かし、両氏はそれぞれの個人的な決断で合意にこぎつけたのだった。両氏が高いハードルを乗り越えたのは「分裂したままでは国民から見放される」との危機感だったようだ。いずれにしても、このころは、著名な学者・文化人の発言が国民世論形成のうえでまだ大きな影響力をもつ時代であった。

 ただ、両組織トップの握手が実現したものの、「草野・森滝合意」に対する両組織の受け止め方は正反対だった。原水協は「原水禁側が原水協の主張する組織統一(解散統一論)を受け入れた」と受け取ったのに対し、原水禁は「またしても頭越し合意だ」と反発し「今後つくられる新しい組織は、組織の解散統一ではなく、国民各層が参加できる連合組織体でなければならい」との見解をまとめた。「解散統一に原水禁のトップが合意した」とする原水協。「両組織のトップ会談で原水禁と原水協の共同行動の糸口ができた」とする原水禁。両者の溝はかえって深まった。
 しかし、双方の見解が全くくい違ったままではあったが、ともかく合意書に基づいて、この年の六月十三日、東京で「原水爆禁止統一実行委員会」(統一実行委)が発足する。これには、協、禁の両代表のほか、地婦連、日青協、日本生活協同組合連合会(日本生協連)など市民団体の代表、日本被団協の代表も参加した。とりわけ新鮮な印象を与えたのは市民団体代表の面々で、これらの団体は草野・森滝合意を歓迎し、「協と禁がいっしょに運動するなら」と運動に復帰してきたのだった。
 統一実行委は「ことし八月の大会は統一世界大会として開催する」「国連軍縮特別総会にむけて統一代表団を送る」「年内をめどに国民的大統一の組織を実現する」の三点を確認する。
 
 統一世界大会は、統一実行委の主催で八月三日から広島で開かれた。分裂から実に十四年ぶりの統一世界大会であった。
 この世界大会を取材しての感想は、「統一」とはこんなになごやかなものか、というものだった。私はそれまでの十年間、協、禁それぞれの世界大会を見てきたが、どちらの大会も、自分たちの運動がいかに正統性をもったものであるかを誇示する声に満ち、他団体を非難する声が会場を覆っていた。それは、見ていて決して気持ちのいいものではなかった。それぞれが相手方を非難すればするほど、運動そのものの目標はかすみ、エネルギーは分散し、運動が市民から遊離していくように思われた。が、十四年ぶりに実現した統一世界大会には、そのようなとげとげしさはなかった。参加者の顔には笑顔さえみられた。参加者数も主催者の予想を超え、会場外にあふれた。統一大会は海外代表からも歓迎された。
 開会集会で開会あいさつをした統一実行委常任幹事の田中里子さん(地婦連事務局長)が「分裂していては国際世論を動かせない。統一とは、分裂したものを一つにすることでなく、国民のだれもが参加できる、本当の意味の統一を目指すことだ」と述べたとき、会場内から激しい拍手が起こった。そして、その後の議事の中で被爆者代表が「統一は被爆者にとって最大の喜びであります」と話したとき、会場内の拍手は一段と高まった。
 さらに本大会の会場で、ベトナム代表が「団結、団結、また団結」と演説したとき、会場内の拍手は最高潮に達したのである。

(二〇〇七年五月十五日記)


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