もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第110回 またしても教訓の数々

モスクワ川をさかのぼる(右から中井写真部員、通訳のゾーリン氏、筆者=1977年5月)




 日本とロシアの間には、解決を求められているさまざまの問題がある。私たち取材班がロシアの前身のソ連を訪れた一九七七年(昭和五十二年)当時も、日ソ間には未解決の諸問題が横たわっていた。それらは、その後も解決されず、今日まで引き継がれているといってよい。
 どんな問題が未解決となっているのか。まず、平和条約締結の問題がある。北方領土問題もある。それに、第二次大戦後、シベリアへ連行され、強制労働させられた日本軍の捕虜たちへの補償問題がある。また、日ソ中立条約を破って満州(現中国東北部)に攻め込んできたソ連軍によってなされた在留邦人への略奪、暴行などを糾弾する声は今なお根強い。
 が、私たち取材班は、三十回にわたる連載では、これらの問題にしぼった項目を立てなかった。これらの問題を避けたからではない。いや、私たちは行く先々でこれらの問題についてソ連側と議論した。が、連載の主要テーマとしなかったのは、取材の狙いが「革命六〇年を迎えたソ連の現状」を紹介することにあったからである。

 「ソ連の現状」を紹介することが目的であったにしても、この巨大な国の実態に迫るには「四十八日間」では足りなかったと思う。が、取材というものには常に時間的制約がともなうから、時間不足はやむをえない。それよりも、私個人としては、今回の取材でも悔いが残った。
 
 ソ連報告の取材、執筆にあたっては、取材班のメンバーがそれぞれ得意とする分野を分担することにしたことはすでに述べた。が、みんながハタと困ったのは「医学」だった。
 取材班には医学に明るい者がいなかったから、取材班としてはもともと医学関係の取材は予定していなかった。ところが、ソ連側がつくった、ウクライナ共和国の首都キエフでの取材スケジュールには、医学関係者との会談と施設の見学が入っていた。ソ連側としては、世界に誇る現代医学の成果を日本にPRしたかったのだろう。同行のソ連人記者が言った。「関係者は夏休みを返上して出勤し、みなさんをお待ちしています」。いまさらキャンセルするわけにもゆかず、スケジュールに従うことになった。
 そんなわけで、私たちはウクライナ共和国科学アカデミー付属腫瘍研究所長で、がん研究の権威とされるカベツキ教授、ソ連最大の心臓外科病院長でレーニン賞受賞者のアモソフ教授、ソ連医学アカデミー付属老人医学研究所長のチェポタリョフ教授の三人に会った。アモソフ教授は自ら病院内を案内してくれた。
 が、話を聞き、施設を見たものの結局、記事にはできなかった。私自身についていえば、がんについても、心臓外科についても、老人医学についても全く無知だったからだ。
 私は反省せざるをえなかった。なぜ日ごろ、医学のことを少し勉強しておかなかったかと。せめてがんや心臓外科の病院を見学して、日本のがん研究や心臓外科がどのレベルのものかを知っておれば、三教授に対してももっと実のあるインタビューができたろうし、それを記事にできたのではないかと。
 
 反省、といえば他にもあった。工場での取材にあたって、である。取材班は各地で乗用車、トラクター、織物などの工場を見たが、私自身はこれらの生産工程をみながら、その技術水準が分からなかった。なぜなら、自分の国でこうした工場を見ていないから、日ソの比較ができないのだ。もちろん、取材班にはこの方面に明るい高山外報部員がいたから、同部員がもっぱらこの分野の取材を担当したが、私自身は「ああ、日本にいる間、いろいろな工場を見学しておくべきだった」と、日ごろの不勉強を悔いた。
 まだある。私たちは、行く先々で、取材相手から逆に質問された。「日本の耕地面積は」「コメの収穫量は」「大学の授業料は」……取材班の中の、それそれの分野に明るい者がなんとか答えたが、それらの問答を通じて、私は日本の農業、教育についてもっと勉強しておくべきだったと痛感した。
 考えてみると、新聞記者はいつ何時いかなる場面に遭遇するかもしれず、まことに「待ったなし」なのだ。つまり、あらゆることに対応しなくてはならない。いわば万能選手であることが求められている、といえる。であれば、記者は自分の専門外のことにも通暁していなくては、とつくづく思い知らされた。

 それから、今回のソ連取材は、先輩記者に「新聞記者はこうでなくては」と教えられた旅でもあった。
 取材班が地方取材を終えてモスクワに戻り、ホテルを拠点に仕上げの取材を続けていた時のことだ。取材班キャップの青木利夫ヨーロッパ総局長が、私たちに訪問先を告げないまま一人で外出した。私たちは、散歩か市内見物に出かけたのだろう、とさして気にもとめなかった。
 数時間後、ぶらりとホテルに戻ってきた青木総局長が言った。「サハロフに会ってきたよ」。私たちは総立ちになった。
 サハロフ博士は、ソ連の「水爆の父」とも呼ばれた物理学者。一九七二年、政府に対しソ連社会の民主化を要求し、七三年、国家保安委員会(KGB)から反ソ活動容疑で取り調べを受けた。この年、博士は党、政府指導者の公選やリコール制などを提唱。マスメディアからも攻撃を受けたが「反体制」の姿勢を変えず、作家ソルジェニーツィンが追放された時は、当局を非難した。一九七五年にはノーベル平和賞を受賞、西側諸国から「ソ連反体制派」の象徴と目されるようになり、その動静が世界的な注目を集めていた。
 私たちも当然、サハロフ博士の主張や、ソ連当局の対応に関心があったが、私たち取材班の受け入れ先であるノーボスチ通信社との打ち合わせの際、「サハロフ博士に会わせて欲しい」などとは切り出さなかった。取材班のだれもが「反ソ活動容疑者と認定されている人物に会わせろと要求しても、ソ連側はまず認めないだろう」と思っていたし、現に、西側のマスメディアがソ連内の反体制派と接触するのをソ連当局がひどく嫌っていることをマスメディア関係者ならばみな知っていたからである。
 しかし、青木総局長は、私たちのだれとも相談することなく、反体制派のサハロフ博士を訪ね、インタビューに成功した。青木総局長によれば、博士はモスクワ市内のアパートの七階に住んでいた。そこに行くまでソ連当局にとがめられることもなく、簡単に会うことができたという。
 青木総局長は、博士の住所をどのようにして突き止めたか私たちにも話さなかった。総局長はロンドンに勤務していたから、おそらくそこでソ連反体制派とコンタクトのある団体か人物に接触し、聞き出したにちがいないと私は思った。
 報道機関としてソ連の現状をあますところなく紹介しようというのであれば、ソ連がかかえる「反体制派問題」にも触れないと何か重大なことを欠落させてしまうのではないか。青木総局長はそう考えたのではないか、と私は類推した。取材相手の全体像を報道するためには、相手が触れられることを歓迎しない事実にも果敢に迫らなくてはならない。新聞記者たる者はそうでなくてはならない――青木総局長の挑戦は私たちにそう教えているように私には思われた。
 だれからともなく「写真があるといいな」という声があがった。すると、中井写真部員がすかさず言った。「よし、おれが撮ってくる」。青木総局長は中井部員を連れて再びサハロフ博士のところへ向かった。やがて二人は戻ってきたが、「こんどは博士に会えなかったが、アパートの写真は撮れた」とのことだった。
 この間、残っていた私は自分がひどく緊張しているのを感じていた。そして、脳裏に不安がよぎった。「国外追放なんていうことにならないだろうか」。が、帰国するまで、ソ連側からは何の反応もなかった。
 サハロフ博士の現況は連載の中で紹介された。「サハロフの孤独 底辺に伝わらぬ理念」のタイトル、アパートの写真つきで。筆者はもちろん青木総局長だった。

 取材を終えた私たちは空路で帰国の途に着いた。シベリア上空にさしかかった時、私は、私の中で取材を通じてえたこの国についての印象が固まりつつあるのを感じていた。
 それは「この国は、常にさまざまな困難を抱えながら実にダイナミックな変化をとげてきた国だな。それは、この国の人たちが世界史上初めての社会主義革命をなしとげたうえ、スターリンによる大量粛清や第二次大戦による大きな犠牲も乗り越えて国を世界二大超大国の一つに押し上げたことからもうかがえる。この国は、これからもさまざまな問題に直面しながらも発展してゆくだろう。なにしろ、内に秘めた潜在力を感じさせる国だから。これからの新しい発展の舞台はおそらくシベリアだろう。そこには、無限の資源が埋蔵されているのだから」というものだった。
 しかし、それから十四年後、この国が消滅することになるとは夢にも思わなかった。

(二〇〇七年四月二十六日記)


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