もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第89回 生きて虜囚の……戦陣訓の呪縛


横井庄一さん帰国を伝える朝日新聞夕刊(1972年2月2日付)




 西太平洋に浮かぶ熱帯の島、グアム島のジャングルの中で、二十八年にわたる穴居生活。しかも、食べ物から身につけるもの、そして、住まいまで完全な自給自足生活。まるで、現代のロビンソン・クルーソーといってよかった。それだけに、元日本陸軍軍曹・横井庄一さん出現のニュースは、衝撃的な出来事としてまたたく間に世界を駆けめぐった。グアム島は内外の報道陣であふれかえった。

 私にとって衝撃だったのは、横井さんが太平洋戦争が日本の敗北で終わったことを知っていたことである。にもかかわらず、横井さんは投降の呼びかけにも応じなかった。いっしょにジャングル生活を始めた戦友たちが一人死に二人死にしてひとりぼっちになっても、ジャングルから出てゆこうとしなかった。病気になっても、助けを求めなかった。「なぜだろう」。横井さんを目の前にして私が抱いた最大の関心事はそのことであった。
 日本人記者団の「スピーカーで降伏を呼びかけられても、どうして出てこなかったのですか」との質問に、横井さんは「怖いから出てこない」と言った。記者団が「怖いってどういうことですか」とたたみこむと、横井さんはよどみなく答えた。
 「日本では昔ね、子どもの時から教育を受けてるでしょ。大和心で花と散れ。そういうように教育を受けていますよ。散らなきゃ、怖いです」

 横井さんが、心にもないことを言っているとは思えなかった。だから、横井さんの答えを聞いて、とっさに私の脳裏をよぎったのは、戦陣訓の一節であった。
 戦陣訓とは「一九四一年(昭和十六)陸相東条英機の名で、戦場での道義・戦意を高めるため、全陸軍に示達した訓諭」(大辞林)である。その「本訓其の二」の{第八 名を惜しむ」に「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」とある。
 横井さんが米軍の投降呼びかけにもジャングルから出ていかなかったのは、子どもの時からたたきこまれた「大和心で花と散れ」という国家的な訓告が、横井さんをおしとどめていたからなのだ。「大和心で花と散れ」とは、日本男児たるものは、戦場にあっては捕虜になるよりも死を選べ、ということだ。別な言い方をするならば、「生きて虜囚の辱を受けず」ということだろう。要するに、横井さんをジャングルの穴に閉じ込めていたのは、戦陣訓にそむくことへの恐れだったのだ。戦争が終わって二十八年にもなるのに、戦陣訓は厳然と生き続けていたのである。

 こうした思いをさらに深くしたのは、横井さんの二回目の記者会見だった。横井さんは「日本に帰ったら、天皇陛下にお会いしたい。でも会えんでしょうな。でも私が天皇陛下のために、天皇陛下を信じ、大和魂を信じて生き続けてきたということだけはお伝えしたい」と語り、さめざめと泣いた。
 四回目の記者会見の時、外国人記者団が「日本からの報道では、天皇陛下があなたにお会いになるという話が検討されているようだが」と話しかけると、横井さんは急にかしこまった姿勢になり、「その話は聞きました。ありがたくて、もったいなくて、涙が出た。思わずひざまずきました」と頭を下げた。その途端、見る見るうちに目から涙があふれ出た。
 「天皇陛下に忠実な日本軍兵士」、すなわち皇軍兵士はいまだに健在だったわけである。そんな皇軍兵士を目の前にすると、私は長いタイムトンネルの中を過去に引き戻され、別世界に連れてこられたかのような奇妙な感じに襲われた。

 ともあれ、「生きて虜囚の辱を受けず」を基調とする戦陣訓は、世界でもまれにみる日本軍独特の「玉砕戦法」を生んだとみていいのではないか。
 日本軍の玉砕が国民の関心を集めたのは、まず、一九四三年(昭和十八年)五月二十九日の、アリューシャン列島アッツ島における玉砕である。部隊長の山崎保代陸軍大佐ら約二千五百人の守備隊が全員玉砕した。次いで、同年十一月二十五日には、太平洋上のタラワ、マキン両島で守備隊三千人・軍属千五百人が全員玉砕した。翌四四年二月六日には、やはり太平洋上のクエゼリン、ルオット両島の守備隊四千五百人・軍属二千人が全員玉砕。さらに、同年七月七日には、太平洋マリアナ諸島のサイパン島で南雲忠一中将以下二万七千余の守備隊が玉砕した。
 横井さんが救出されたグアム島にも、同年七月、米軍約五万五千人が上陸、二十二日間にわたる激戦の後、日本軍の守備隊約二万人の大半が玉砕した。生還者はわずか千人ぐらいとされる。米軍側も約千三百人の死者を出した。
 敵との戦闘で敗北が決定的となり、残った守備隊全員が決死の覚悟で敵陣に最後の突撃を試みて果てるという壮烈な玉砕戦法は、日本国民に衝撃を与えた。当時、小学校(当時は国民学校といった)低学年だった私も、相次ぐ玉砕の報に、子ども心にも悲痛な思いにかられたことを覚えている。

 悲劇的だったのは「生きて虜囚の辱を受けず」という訓諭が、非戦闘員である民間人をも強く支配していたことだった。
 例えば、サイパン島の戦闘では、日本軍の守備隊が玉砕しただけではなかった。この戦闘に二万五千人もの同島在留の一般邦人も参加し、婦女子をも加えて、その大半が自ら生命を断った。
 米国の『タイム』誌の記者の従軍記録によると、彼らの最期の模様は「こどもをまじえた男女数百名の非戦闘員も、いちように崖から、または崖から伝い降りて入水した。ある父親は三人の子どもをかかえながら身を投じたし、また四、五歳の少年が武装した日本兵の首にしっかり腕を巻きつけて死んでいた。崖の上に立って悠然と髪をくしけずっていた女たちが、とき終わると、手をとりあって崖から海中に身を躍らせていった。小さなこどもをまじえた数十人の日本人が、まるで野球選手のウォーミングアップのように、嬉々として手榴弾を投げあっているのも見た」といったものであったという(筑摩書房の『日本の百年3 果てしなき戦線』、一九六二年刊)。
 後年、テレビで、崖から海中に身を投ずる女性たちをとらえた映像(おそらく、当時の米軍従軍カメラマンが撮影したものにちがいない)を見た。いいようのない気持ちに襲われ、胸が痛んだ。

 横井さんは救出から十日目の二月二日、日航特別機で羽田空港に着いた。二十八年ぶりの帰還であった。空港には、斎藤昇厚生大臣らが出迎えた。タラップを降りた横井さんの帰国第一声は「グアム島の状況をつぶさに日本の方々に伝えたいと思い、恥ずかしいながら生きながらえて帰ってまいりました」というものだった。
 「恥ずかしいながら」は、その後、「恥ずかしながら」とつまって、この年の流行語になった。当時の国民大衆がこのフレーズに何を感じてこれを多用したのか私には分からない。が、故国の土を踏んだ途端にこのフレーズを発した横井さんの胸の底には「本来ならば戦友といっしょに玉砕すべきところを一人おめおめと生き延びてしまって恥ずかしい」という思いが渦巻いていたのではないか。この時、横井さんとらえていたのは、やはり戦陣訓だったのではないか、と私はみる。

 「南のジャングルの中にひそんで二十八年」という横井さんの経験は、類いまれな体験として人々の関心を集めたが、それから二年後の一九七四年三月、フィリピンのルバング島で残存日本兵の小野田寛郎元少尉が三十年ぶりに救出されるという衝撃的ニュースのためにやや色があせる。
 だが、ジャングルの中で自給自足の質素な最低生活をおくらざるをえなかった横井さんの体験は、一躍、暖衣飽食の生活に飽き、肥満に悩む一部日本人の関心を呼び、横井さんはがぜん、「耐乏生活評論家」として講演などにひっぱりだこになる。名古屋に落ち着き、結婚にも恵まれる。
 そのこと自体、まことに慶ぶべきことであったが、人々が横井さんを「耐乏生活評論家」として持ち上げることには、私自身、いささか違和感を覚えた。もっと大切なことがあるのではないか。すなわち、私たちが横井さんの辛い体験からくみとるべきことは、耐乏生活のノウハウよりは、横井さんを気の遠くなるような長い隠遁生活に追い込んだ戦争というものの真実、つまり市民にとって戦争とはいったいどういうものであったかの解明、ということではなかったか。グアム島まで飛んで現地取材した者にはそう思われてならなかった。

 横井さんの帰国を挟んで、社会部からグアム島に特派された記者たちが分担して執筆した続き物『横井さんと28年後の別世界』が社会面に掲載された。
 私は三回目を担当したが、そのタイトルは「皇軍 最後の兵士」だった。その中で、私はこう書いた。
 「歴史を忘れた民族は歴史によって復しゅうを受ける、とは中国文学者竹内好さんのことばである。過ぐる戦争で軍人、民間人合わせて約五十万人の日本人が太平洋で戦没した。南洋の島々のジャングルのなかに、まだ多くの遺骨が野ざらしになっている、との声も聞いた。戦争はまだ終わっていないのだ」
 横井さん救出を機に、日本国民はいまこそ満州事変以降の、いわゆる「十五年戦争」の歴史をきちんと総括すべきではないか、すなわち「十五年戦争」とはいかなる性質の戦争であったかを戦争責任の所在も含めて国民自身の手で明らかにすべきではないか、そうした作業を怠ると、私たちの国は再びかつてたどった道を歩むことになるのではないか、と問うたつもりだった。
 
 横井さんは一九九七年九月に死去した。八十二歳だった。

(二〇〇六年八月二十三日記)






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