もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

第65回 エンプラ闘争で警官隊になぐられ負傷


学生たちを制圧する警官隊(1968年1月17日、長崎県
佐世保市の市民病院際で)




 それは、一瞬のことだった。私は黒い津波のような警官隊にコンクリート壁に押しつけら れ、警棒の乱打を浴びた。頭皮がやぶれ、血潮が飛んだ。私はよろよろと立ち上がり、病院 の方に歩き始めた。何が起きたのかわかるまでにしばらく時間がかかった。「そうだ。警官隊 にめった打ちにあったのだ」。一九六八年(昭和四十三年)一月十七日、長崎県佐世保市で のことである。

 ベトナム戦争が激化の一途をたどっていた一九六七年暮れから六八年の正月にかけ、日 本は米国の原子力空母「エンタープライズ」の日本寄港をめぐって世論がふっとうしていた。 核燃料を推進力とする世界最大の攻撃型航空母艦で、基準排水量七五、七〇〇トン。全長 三三六メートル。幅四〇メートル、艦載機は七十から百機。乗組員は四、〇〇〇人以上。一 九六二年に完工、六五年から第七艦隊に配属され、ベトナム作戦に参加していた。「動く核 基地」というのが異名だった。
 六七年九月に米国政府から外務省に「乗組員の休養と物資の補給のために日本に寄港さ せたい」と申し入れがあり、同年十一月、佐藤栄作内閣は寄港承認を米側に通告した。社会 党は「エンタープライズの寄港承認は、米国のベトナム侵略への佐藤内閣の協力、加担がさ らに強まったことを示す。北爆の拡大に重要な役割を持つ原子力艦隊を入港させることは、 日本がベトナム侵略の直接の基地化することを意味する。社会党は広範かつ強力な寄港阻 止のたたかいを展開する」との声明を発表した。
 同年暮れには、「佐世保寄港説」が強まり、年が明けると、社会党系、共産党系の団体、 労働組合の全国組織・総評の加盟組合、市民団体などが佐世保に集結を始めた。反代々 木系学生も「佐世保を第三の羽田に」と活発な動きを見せ始めた。
 佐世保は西日本有数の良港といわれ、戦前は軍港として名をはせた。戦後は米海軍基地 が設けられた。そこが、戦争にからんで再びクローズアップされるに至ったのだ。人口は約 二十五万。
 マスメディアも空前の取材体制を敷いた。朝日新聞は一月十四日、佐世保支局に取材本 部を設置した。数々の原稿送稿装置、臨時電話、ニュースカー、ラジオカー、ジープ、オート バイ、ヘリコプターなどなど。総勢約八十人。取材本部の指揮をとったのは西部本社社会部 次長の後藤龍介氏。狭い支局事務所ではとてもまかないきれず、田中哲也支局長は家族を 市内の旅館に疎開させ、家族用の部屋を取材本部用に充てたほどだった。
 約八十人のうち、三人は東京本社社会部からの応援組だった。警察庁担当の鈴木卓郎記 者、遊軍の高木正幸記者、それに同じく遊軍の私。

 私が佐世保入りしたのは一月十三日。十五日には福岡市へ飛んだ。「エンタープライズ入 港阻止」を掲げる反代々木系の三派全学連が全国各地から九州大学に集結しつつあった が、福岡県警察本部がこれを大量に検挙して、佐世保には行かせない方針だ、との情報が 入ったためだ。
 結局、福岡県警は学生の大量検挙に失敗、九州大学に泊まり込んでいた学生たち約八百 人は十七日朝、国鉄博多駅から急行「西海」で佐世保へ向かった。私もこれに同乗して学生 たちを追った。学生たちはヘルメットにタオルの覆面。途中の駅で角材を積み込んだ。
 午前九時四十七分、「西海」が佐世保駅に到着すると、学生たちはプラットホームから、米 軍用の引き込み線伝いに米海軍基地に向かって走りだした。私も走ってその後を追った。駅 から米海軍基地までは約一キロ。学生たちが基地に近い、佐世保川にかかる平瀬橋に着い たのは午前十時ごろ。橋の上や引き込み線の鉄橋の上には、すでに有刺鉄線、板サクなど によるバリケードが築かれていた。その後ろに放水車、さらにその後方に多数の警官隊の 姿が見えた。警察側は、学生らの行動に備えて全国各地から集めた警官約三千二百人を 佐世保市内に配置していた。
 学生たちがバリケードを突破しようとしたことから、攻防戦が始まった。学生側は石を投 げ、角材とロープを使ってバリケードを壊そうとする。警察側は放水、催涙ガス筒、催涙ガス 弾などで対抗した。

 こうした攻防戦が約二時間続いた。午前十一時四十五分ごろだったろうか。私は、平瀬橋 上流の佐世保川沿いの道路を、警官隊が平瀬橋に向かってくるのに気づいた。「いよいよ実 力で学生を排除か」。そう思った私は学生たちの群れから離れて、平瀬橋際にある市民病 院の橋寄りの角に移動した。学生の中にいたのでは、乱闘になった時、巻き込まれるおそれ があると思ったからだ。まわりを見ると、各社の記者やカメラマンがいた。そこは「見物」には もってこいの場所だったから、一般市民も多かった。
 その時の学生たち。一部は鉄橋の上のバリケードにロープをひっかけて引っ張っていた。 一部は平瀬橋上で放水の中をバリケードに向かって突っ込んでいた。ごく少数が、橋の上流 から近づいてくる警官隊に気づき、角材を持ち直して橋のたもとに集結しつつあった。
 その時である。警棒を振り上げた数百人の警官隊が突如、基地と反対側、すなわち学生 たちの背後に現れ、学生たちに襲いかかった。不意をつかれた学生たちは角材を拾って態 勢を整えるひまもなく、右往左往。ほとんど同時に、基地側の警官隊もバリケードを踏み越え て押し寄せてきた。橋の上流から近づきつつあった警官隊も学生たちに突っ込んだ。三方か ら挟み打ちにあった学生たちは逃げ場を失った形となり、一部は市民病院玄関に殺到した。
 これらのことは一瞬の出来事で、私が事の重大さに気づいたときには、警官隊が眼前にき ていた。警棒を振り上げ、投石よけの盾を構えた警官たち。「あぶない」。私は市民病院に逃 げ込もうとした。他の報道関係者も、市民も、病院の玄関に向かって走った。が、警官たちは 逃げ遅れた私たちを突き飛ばし、警棒でなぐりかかってきた。とうとう、病院の壁に押し付け られた。もう逃げるところがない。そこで、また警棒の乱打。私は、壁に押しつけられた学 生、報道関係者、市民の塊の一番外側にいた。
 私の服装は、背広の上にエンジ色のマフラーとオーバーコート。左腕に新聞社の腕章をし ていた。頭にはヘルメット。が、そのヘルメットはすでにどこかへ飛んでいた。「ブスッ」「ブス ッ」。警棒がうなる下で「新聞記者だ」と何度も叫んだ。
 「殺されるかもしれない」。そんな思いが一瞬、頭の中をよぎった。とにかく、ここを逃れなく ては。私は目の前の警官のまたをくぐって出ようとした。と、また背中に警棒の一撃。ようや く、はって警官隊による包囲から脱出した。振り返ると、警官が倒れた学生を足げにしてい た。ホッと息をついたとき、何かなま温かいものが頭から首筋やほおに伝わってきた。鮮血 だった。
 早く治療を受けなくてはと、私は市民病院に入ろうとした。その瞬間、私の身体は後ろに飛 びのいた。玄関の中で警官二人と学生一人が、警棒と角材で渡り合っていたからだ。警棒に うちすえられたばかりの私の身体は、警官を見て、まるで条件反射のように本能的に飛びの いたのだった。私はわが目を疑った。病院に逃げ込んだ学生までも追いかけて、病院内で 警棒をふるうとは。戦争といえども、病院は絶対に暴力がふるわれてはならない「聖域」だと いうのに。

 病院内はまるで野戦病院のような騒ぎだった。私は、止血の応急手当てを受け、病室内の ベッドに横たわっていると、若い男性がそっと近づき「お名前を」と話しかけてきた。なんと、 「朝日」の記者で、負傷者の取材にきていたのだ。私は東京本社社会部員と名乗り、「朝日」 の取材本部に私の所在を伝えてくれるよう頼んだ。
 とにかく、取材本部に戻らなくては。私は痛む足をひきずりながら、佐世保支局まで歩い た。支局に着くと、時計は午後一時を少し回っていた。東京本社社会部の伊藤牧夫部長に 電話で報告すると、部長は早口で言った。「なぐられた状況をすぐ原稿にして送れ」
 私は右手も負傷し、包帯を巻いていたが、その手で原稿用紙に向かった。そして、夕刊締 め切り時間(午後一時三十分)ぎりぎりに東京への送稿を終えた。それは「事前の警告もな く」「機動隊 市民もなぐる」「激突の渦中で本社記者手記」という見出しで夕刊最終版に四段 扱いで載った。名古屋、大阪両本社発行の夕刊にも載った(ただ、西部本社版にはこの手 記がなぜか載らなかった。このため、事件現場である佐世保のほか九州の読者は私の手記 を読むことができなかった)。 
 その後、支局近くの小西外科病院で治療を受けた。頭をさわった医師は「コブだらけじゃな いか」と驚いた。頭のてっぺんに長さ四センチの打撲挫創で三針縫った。右頭部にも一セン チの打撲挫創。こちらは一針ですんだ。鼻の下にも挫創。左手の甲に打撲傷、右手の人さし 指と小指に挫傷、右足のすねに打撲傷。全身七カ所に負傷し、治療十日間と診断された。ズ ボンは警官の靴で蹴られたせいかビリビに破れていた。
 頭部をやられているところから、後遺症を心配した分部照成・長崎支局長のはからいで、 その夜、佐世保市郊外の長崎労災病院に入院した。レントゲン検査の結果、頭の骨には異 常なく、まずは廃人になることだけは免れた。この時、年輩の医師が語ったことを覚えてい る。「昔の海軍はよく水兵をなぐったものだが、決して頭だけはなぐらなかった。警官はなぜ 頭をなぐるのだろう」

 十七日付の朝日新聞夕刊によれば、「正午前、警察部隊に逮捕命令が出た。それまで投 石に耐えていた部隊の指揮官が『逮捕せよ』と指示した」とある。しかし、現場で演じられたの は一斉逮捕というよりは、警棒による激しい制圧であった。そのことは、この日の逮捕者が 二十八人であるのに対し、負傷者が九十二人というアンバランスな数字に何よりもよく表れ ている。負傷者九十二人の内訳は学生六十七人、警官十人、鉄道公安職員八人、報道関 係者四人、一般市民三人。けがの程度は重傷二十人、軽傷七十二人。
 報道関係者の負傷者四人のうち最も重いけが人が私であった。 (二〇〇六年一月二十 四日記)





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