もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第56回 生き方を決めた被爆写真


本年(2005年)8月9日にも長崎には全国から多数の人々が集まった
(長崎市の爆心地公園で。筆者写す) 




 ごくささいなことが、人の一生を決めることがある。私の場合は、数葉の被爆写真だった。

 社会部で「民主団体担当」となり、原水爆禁止運動をフォローすることになった私は、一九 六七年(昭和四十二年)八月八日、同じ社会部の村上吉男記者(その後、アメリカ総局長、 外報部長など歴任)と長崎へ出張した。そこで開催される原水爆禁止世界大会長崎大会を 取材するためだった。
 前年に「民主団体担当」になったものの、原水爆禁止世界大会を取材するのはこの年が初 めて。当時、原水爆禁止運動は三つの潮流に分裂していて、原水協(共産党系)、原水禁 (社会党・総評系)、核禁会議(民社・同盟系)が、それぞれ毎年、「広島原爆の日」の八月六 日、「長崎原爆の日」の八月九日を中心に東京、広島、長崎を結んで世界大会や集会を開 いていた。だから、私もこの三つの団体の大会や集会を取材しなくてはならなくなったわけだ が、一人ではとても手がまわらない。そこで、社会部は、もう一人の記者をその取材のため にさいてくれた。それが村上記者だった。
 本来なら、私たち二人は東京―広島―長崎と移動するはずだったが、この年は原水協、 原水禁とも東京に大会の主眼をおいたので、その取材に追われて広島へは行けずじまい。 結局、私たちは東京から直接、長崎に飛んだという次第だった。

 当時の長崎は被爆から二十一年。街並みは見事に復興していて、被爆の惨状を如実に示 す建造物はほとんど見ることができなかった。せいぜい、浦上駅に近いところに残る「片足鳥 居」くらいだった。
 そこで、取材の合間に爆心地に近いところにあった「長崎国際文化会館」を訪ねた。被爆十周年の一九五五年に建てられたもので、被爆した物品が展示されていた(その後、一九九六年に建て替えられ、名称も「長崎原爆資料館」と変わった)。
 そこには、被爆してボロボロになった衣服や、爆発時の熱線で焼けただれたり、変形してし まった瓦、異常な高熱で溶けてしまったガラスのびんなどが展示されていた。
 なかでも、私をその場に釘付けしたのは被爆直後の写真である。その大部分は山端庸介 (故人)の撮影によるものだった。山崎は当時、陸軍報道班員で、九州の博多にあった西部軍から長崎に派遣された。原爆投下翌日の八月十日に長崎に入り、カメラのシャッターを押 し続けた。
 見渡す限りすべてが破壊し尽くされ、焼き尽くされた長崎の街。まさに原子野と化した、音 のない、時間が静止したような荒涼たる光景。そこに転がる、炭化した焼死体。爆死した母 子。馬の死骸。まだ救援の手も届かず、半ば死んだように、うつろな表情で横たわる被爆者 たち……それらの写真は、原爆被害の一端を伝えてあますところがなかった。
 山端の写真はどれも衝撃的で、私にとって終生忘れがたいものとなったが、他にも長く印 象に残る写真があった。原爆投下直後の八月下旬に朝日新聞社のカメラマンだった松本栄 一(故人)によって撮影されたものだ。
 肉親の遺体を、生き残った家族らが焼いているのだろう。積み上げられた材木が炎をあげ、そのわきで学生服の少年二人と、もんぺ姿の女性、ゲートルをつけ戦闘帽をかぶった男 性が、炎を見つめて茫然と立ちつくす。四人は身じろぎもしない。まるで、放心したよう。時は夕暮れであろうか。四人の背後に広がる焼け野原はすでに暗く、遺体を焼く炎だけが明るい ……
 私は、その写真からしばらく目を離すことができなかった。原爆を被った人々の、言語に絶 する深い、深い悲しみが切々と伝わってきて、胸が痛くなった。原爆被害の悲惨さを伝えてやまない写真であった。
 私は思った。こんな残酷な、悲惨極まることがこれまで果たして人類史上にあっただろうか。こんな惨劇をもたらした行為が人道上許されるだろうか、と。そして、こう思った。こんな 出来事は絶対に忘れ去られてはならない。むしろ、地球の果てまでいついつまでも広く伝 えてゆかなくてはならない、と。

 では、報道に携わる者としてはどうしたらいいだろうか。そうだ、ヒロシマ・ナガサキを忘れないためには、そして、ヒロシマ・ナガサキを自らの仕事を通じて世の人に伝えてゆくためには、毎年、八月六日と八月九日に被爆地の街角に立ち、全国から結集してきた人々の反核 への熱い思いを報道してゆけばいいのだ。
 そう考えた私は、翌六八年夏も広島、長崎へ出かけていった。次いで、翌々年も。当時の社会部では、二、三年もすると、持ち場(担当)が変わったものだが、原水爆禁止運動関係の取材をやってみたいという部員は他に名乗り出なかったから、私の原水爆禁止運動担当はついつい長くなった。
 一度、社会部長から「労働担当をやってみないか」と異動を打診されたことがあったが、私 は「引き続き原水爆禁止運動を含む平和運動の取材をやってみたい」と断った。結局、原水 爆禁止運動の取材は、定年で朝日新聞社を退職する一九九五年まで続いた。
 もっとも、途中、一九七〇年代半ばの三年間、内勤の仕事(デスク)に携わったので、原水 爆禁止運動の取材に携わったのは実質的には二十六年間であった。もちろん、この間は毎 年、夏には広島、長崎へ出かけていった。
 定年退職後もずっと、毎年、八月六日には広島の、八月九日には長崎の地を踏んでいる。 そんなわけで、今年(二〇〇五年の夏)は三十六回目の旅だった。私の広島・長崎詣ではこ れからも続きそうだ。





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