もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第42回 下町情緒にはまる


40年前の東京・浅草六区(1965年、筆者写す)




 東京本社社会部員になった私は一九六四年(昭和三十九年)二月から、東京東部の墨 田、江東、江戸川、葛飾、足立の五区内にある十一の警察署を担当するサツまわり記者と なり、墨田区の本所署にあった記者クラブを拠点に事件・事故の取材に明け暮れたが、サツ まわり記者は事件・事故だけを追っていればいいというわけではなかった。社会部からは、 町ダネ(事件・事故以外の、地域に根差したニュース、話題をいう)も書くよう求められていた からだ。
 そんなこともあって、事件・事故のない時は、会社から車を記者クラブに回してもらい、それ で管内を回った。
 東京東部の五区は「下町」といわれる地域。もっとも、「下町」はこの五区にとどまらない。 山の手と下町との境界は赤羽―上野―芝―品川の線で続く台地末端の崖というから、上 野、浅草という盛り場をもつ台東区も下町だ。
 その台東区は私の持ち場ではなかったが、時々、そこへも足を伸ばした。というのは、国 鉄上野駅前に上野警察署があり、そこに記者クラブが置かれていたからだ。そのころ、「朝 日」では、上野署記者クラブに常駐していた記者が休日の時は、隣の本所署記者クラブにい た私たち二人のうち一人が、上野署記者クラブにつめることになっていた。こうしたカバー関 係にあったため、台東区内をも回ることができたのだ。おかげで、下町とされる大半の地域 で見聞を広める機会に恵まれた。

 新聞記者になる前、私は東京で学生生活をおくったが、下宿も大学も山の手にあった。時 おり、下町に足を踏み入れることもあったが、それはごく限られた場所であった。だから、私 にとって下町は初めての土地同然といってよかった。そこを回るうちに、私はすっかり下町が 好きになってしまった。

 私が惹かれた下町の魅力は、まず、下町がもつ歴史と文化だった。
 東京は江戸を下地に発展してきた町。その江戸では社寺の占める位置が高く、江戸時代 の政治や文化に大きな影響を与えた。とりわけ、上野寛永寺と浅草観音(浅草寺)の存在は 大きかった。二つとも、下町にあった。
 とくに浅草寺には近隣から多数の参詣者が集まるようになり、浅草は江戸随一の行楽地、 盛り場として栄えた。それは明治維新後にも引き継がれた。一九二七年(昭和二年)に開通 した日本最初の地下鉄が浅草と渋谷を結ぶものであったことからも、そのことはうかがえる。
 浅草寺の周辺には、数え切れないほどの社寺や、ゆかりある建造物、墓地、歌碑、句碑、 顕彰碑、記念碑の類いが存在する。それらを見て歩くのは、とても楽しく、歴史や文化の勉 強になった。かつて映画館や劇場、寄席が軒を連ねていた浅草六区はすっかりさびれてい たが、それでも昔の面影を残していて、あきなかった。
 浅草ばかりでなかった。上野にも名所旧跡が多く、私を魅了した。そのほかには、柴又帝 釈天(葛飾区)、向島百花園(墨田区)、木場(墨田区)、隅田公園(台東区)、旧吉原(台東 区)などなど。

 食い物にも名物が多く、どれもうまかった。
 まず、墨田区向島の隅田川河畔の「言問だんご」。皿に盛られた三色のだんご。明治元年 の創業とかで、在原業平の歌「名にしおはば いざ言問はん都鳥」にちなんで命名されたと いう。その近くで、もう一つ、高名な和菓子を売っていた。「長明寺櫻もち」である。私たち記 者クラブ員はよく連れだって、だんごや櫻もちを食べに行った。
 墨田区の森下町には、馬肉を食わせる店があった。信州で生まれ、育った私には馬肉は 幼いころからの好物だったから、よく食べに行った。その近くの高橋には、どじょうを食わせ る店が、錦糸町駅の近くには、クジラを食わせる専門店があった。隅田川にかかる両国橋の たもとには「もゝんじや」があり、ハンターに射止められたイノシシがぶらさがっていた。「しし 鍋」の材料であった。
 浅草では、「染太郎」に行った。仁丹塔に近い国際通りを少し西に入ったところにあるお好 み焼き屋だ。戦前の一九三七年(昭和十二年)の開業。店名は経営者である女主人の夫君 の芸名で、夫君は浅草全盛期にならした漫才師だった。店の常連客だった作家の高見順が 名付け親で、彼の代表作『如何なる星の下に』で店の名が広く知られるようになった。天井は 油煙で黒光りし、壁には著名人の色紙がかかっていた。
 喫茶店「アンヂヱラス」にも行った。浅草仲見世通りから二筋ばかり西に行ったところにあ る喫茶店だ。うまいコーヒーと欧風洋菓子が売り物。戦後間もない一九四七年の開店で、新 聞記者のほか、サトウ・ハチロー、武田麟太郎、高見順、久保田万太郎らがよく出入りしたと いう。私が訪ねたころは、創業者の澤田要蔵さんが健在だった。

 だが、私を引きつけたのは、なんといっても、下町で暮らす人たちの気風であった。気さく で、飾らず、開けっぴろげで、親切。私のそれまでの経験では、山の手の人はどちらかという と、とりすましたところがあり、そのうえ近所づきあいもあまりせず、「隣は何をする人ぞ」とい った雰囲気が濃かった。下町の人たちはそうした山の手の人たちとは対照的で、いわば極 めて庶民的だった。田舎に育った私には、そうした下町の人たちの気風が心地よかった。

 人情味豊かな下町の人たちには心なごむものがあったが、その人たちが住む環境は、当 時、かなり劣悪な状況に立ち至っていて、私の心を暗くした。 隅田川は、どぶ川と化してい た。赤黒い濁流がまるで油のようにねっとりと流れ、河畔を歩くと、臭気が鼻をついた。経済 の高度成長につれて、上流から工場排水や生活排水が流れ込み、川を汚染してしまったの だ。隅田川の名物だった「両国の花火」も「早慶レガッタ」も、二年前の一九六二年から中止 となっていた。そんな川を達磨船や、おわい船が上下する。「早く清流をとりもどしてほしい」 と切に思ったものだ。
 地盤沈下も進んでいた。墨田区や江東区では、河川や運河の水面が陸地より高いところ が目についた。いわゆる天井川である。そんな川にかかっている橋は、太鼓橋だった。急速 な工業化による地下水のくみ上げが沈下の一因にちがいない、と考えた。「大雨が降った り、高潮が来たりすると、水が溢れるのではないか」。下町が好きになっただけに気になっ た。

 下町はその後、大きく変貌した。が、私の下町に対する愛着は変わらない。だから、いまで も下町を訪れると、心が落ち着く。





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