もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第147回 生協の発祥地ロッチデールへ
世界最初の近代的協同組合である「ロッチデール公正先駆者組合」の建物は今も保存されている(1994年12月20日、英国のロッチデールで撮す) 




 産業革命発祥の地といえば英国中部にあるマンチェスター市だ。そこからバスで北へ向かう。窓外には平坦な田園地帯が広がり、冬だというのに青々とした牧草が鮮やか。約四十分もすると、前方にこぢんまりした都市が見えてきた。工場を思わせる建物や高層住宅が点在する。人口約九万五千。工業都市のロッチデール市である。一九九四年十二月二十日午前九時半のことだ。
 
 生協に関心を抱いて以来、世界最初の近代的生協とされる「ロッチデール公正先駆者組合」を一度訪ねてみたいと思ってきた。そんな折、ロッチデール公正先駆者組合が誕生してから一九九四年十二月二十一日で百五十年を迎えることになり、それを記念してさまざまな行事が行われるとあって、日本生活協同組合連合会が生協関係者からなる「ロッチデール視察団」を現地に派遣したため、私も同行記者としてこれに加わった。視察団一行は空路でマンチェスターに着き、二十日朝、バスでロッチデールへ向かった。

 一七六〇年代に英国で始まった産業革命は生産様式を根底から変えた。それまでの小規模な手工業的な作業場に代わって、水力や蒸気を動力とする機械制大工場が主流を占めるようになった。その一方で、産業革命は失業や賃下げ、長時間労働をもたらした。
 綿織物と毛織物の生産地であるロッチデールも例外ではなかった。生産様式の変化で生活苦に陥った職人や労働者によるストライキや暴動も起こった。
 労働者には、商人から日常の必需品を掛け買いしてようやく暮らしを維持する者が多かった。そうした弱みにつけ込んで、小麦粉に石こうを混ぜたり、砂糖やオートミルに砂を混ぜて売る悪徳商人も少なくなかった。
 「こんな仕打ちはもうたくさん。自分たちの商店をつくり、品質の良い商品を公正な値段で売り、目方もごまかさず、利益が出たら全員に還元しようではないか」
 そう志した織物工、職人、自営業者ら二十八人が毎週二ペンスずつを積み立て、二十八ポンド(当時、一ポンドは二百四十ペンス)になったところで、これを元手に三階建ての倉庫を借り、店舗を開いた。
 「ロッチデール公正先駆者組合」の誕生であった。家賃を前払いしたので、店に並べることができたのは小麦粉、バター、砂糖、オートミル、ろうそくの五品目に過ぎなかった。あまりの貧弱さに町の人びとの失笑を買った。一八四四年十二月二十一日の夕方のことで、この日は一年中で一番夜が長い冬至だった。
 一八四四年といえば、日本では江戸時代末期にあたる。当時のロッチデールでの労働者の賃金は週一九二ペンス。積立金はその中から二ペンスだからたいした額ではなかったのでは、と思いがちだが、現地でイギリス生協連の関係者に聞いたところでは「そんなことはありません。労働者にとってはやはり大変きついことだったのではないでしょうか。なにしろ、今と違ってみな家族が多く、生活が苦しかったから」とのことだった。

 市の中心にタウン・ホール(市役所)があり、その北側の少し離れたところに「トード・レーン」(ガマ通り)と称する石畳の通りがあった。それに面して三階建ての赤いレンガづくりの建物があった。それが、百五十年前にロッチデール公正先駆者組合が店舗を開設した倉庫だった。建物の名称は「ロッチデール先駆者記念館」。中に当時の店舗が復元されていた。
 中に入ってみる。まず、最初の部屋の左手に二つの大きなビア樽の上に二メートルほどの板が渡してあり、その上に小さな秤と小麦粉、バター、オートミル、砂糖、ろうそくなどがのっていた。部屋の右手には大きな二つの秤と机に椅子。「ああ、これが百五十年前の店舗の販売カウンターと秤類か」。それらに見入っていると、私の耳には、おそらく、ささやかであっても自分たちの店を初めてもつことができて祝杯を上げたであろう組合創始者二十八人と、好奇心から夜の闇の中を店に集まってきたにちがいない近所の人たちの歓声が、時空を超えて聞こえてきた。                        
 ロッチデールの先駆者たちが始めた協同組合の試みは着実に仲間を増やし、英国各地に広がった。やがて、海を越えてヨーロッパ各地に波及した。ついには、日本を含む世界各地に飛び火した。ロッチデールでの試みは、消費生活の面だけにとどまることなく、農業、漁業、工業、金融、保険などの分野にも及んだ。英国の寒い片田舎に灯った、人びとが共通の目的のために力を合わせるという「協同」の小さな火は、ついに世界中に伝播したのである。
 世界中に広がったのは、協同組合を通じて生活必需品を共同で購入し、組合員に売るという経済システムばかりでなかった。協同組合の運営上の原則もまた世界に広がった。
 ロッチデールの先駆者たちが全員討議によって定めた組合運営上のルールは「ロッチデールの原則」と呼ばれる。友定安太郎著の『ロッチデイル物語』(コープ出版)によれば、それは次のようなものだった。
 @資本金は組合員自身が準備し、出資利子は固定利率に制限すること
 A入手可能な純良な生活必需品だけに限定して組合員に供給すること
 B商品は正確な計量を厳正に行って供給すること
 C商品の価格は市価で供給し、求められても掛け売りはしないこと
 D剰余金は組合員各自の利用高に比例して分配すること
 E一人一票制の原則を実行し、組合員資格は平等であること。
 F運営は一定の任期を定めて選出された役員会により行うこと
 G剰余金の一定割合を教育事業のためにあてること
 H定期的に「事業報告書」「決算報告書」を組合員に発表すること
 
 これは、やがて協同組合の世界組織である国際協同組合同盟(ICA)に採り入れられ、一九三七年の第十五回パリ大会で、ICAの協同組合原則として次のように定式化された。
 @加入脱退の自由
 A民主的運営(一人一票)
 B出資配当の制限
 C利用高比例割り戻し
 D政治及び宗教上の中立
 E現金取引
 F教育の促進
 その後、たびたび改定されたが、一九九五年の第三十一回ICA一〇〇周年記念マンチェスター大会では次の七項目になった。
 @自発的で開かれた組合員制
 A組合員による民主的管理(一人一票)
 B組合員の経済的参加
 C自治と自立
 D教育、研修および広報
 E協同組合間の協同
 F地域社会への関与
 ロッチデールの原則は、世界の協同組合運動の舞台で脈々と受け継がれてきたといっていいだろう。

 さて、話を一九九四年暮れのロッチデールに戻すと、十二月二十一日夜、タウン・ホール前の広場で市主催の記念式典があった。厳しい冷え込みの中、広場に集まった数千人の市民を前にJ・ビアズレー市長は「この地から始まった協同組合運動は今や世界で七億人の組合員を擁するまでになった」と宣言した。開店当時を再現した演劇の上演や、鮮やかな衣装で着飾ったトナカイを先頭とする市民たちの行進があり、色とりどりの花火が厳寒の夜空を彩った。
 会場で出会ったイギリス生協連のI・ウイリアムソン主任情報官は興奮気味に語った。「統一は力、団結は力なんですよ。ロッチデールで店を開いた二十八人の先駆者たちが共通の目的のために困難にくじけずに協同を貫き通したことが、今でも世界の人びとをロッチデールに引きつけているんだと思います」
 同主任情報官によれば、ロッチデール先駆者記念館には国内をはじめ世界各地から見学者が絶えないとのことだった。

 マンチェスターのホテルに帰る途中、私はタクシーの外の暗闇に目をこらしながら考えた。「ロッチデールという小さな町で、働く人たち二十八人によって始められた試みが広く世界に普及していったのはなぜだろうか」と。そして、私は結局、こう思うに至ったのだ。「それは、彼らの試みに普遍性があったから、多くの人びとの心を捕らえたのだろう。つまり、そこには、一人ひとりがバラバラでいたのでは無力だが、共通の目的のために力を合わせれば、すべてではないにしても目的はかなうという法則性があったからではないか」と。
                                     (二〇〇八年八月二十九日記)

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