もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第136回 白頭山に挑む――カモシカ同人隊同行記
金日成主席の生家がある万景台を訪れた「カモシカ同人隊」の一行。真ん中が今井通子隊長。左端は筆者(1987年2月)

氷結したテドンガン(大同江)。1987年2月、平壌で




 一九八六年(昭和六十一年)から八八年(同六十三年)にかけては海外での取材が相次いだ。八六年は中国の青海・チベットへ出かけたし、八七年には中国の西域・シルクロードを訪れた。そのシルクロード行は七月のことで、まさに酷暑の中での探訪だったが、その五カ月前、私は氷点下三十度の酷寒の中にいた。

 人生では、時として思いもよらない出来事に出会うことがある。これも、まさにそうした経験だったと思う。
 八六年十一月、伊藤牧夫・副社長に呼ばれ、こう申し渡された。「今井通子さんが北朝鮮の白頭山に登りたいと言っている。なんとか実現させてやりたい。北朝鮮当局に取り次いでくれないか。実現するようだったら、白頭山登頂に同行してくれないか」。私がそれまで四回も北朝鮮を訪れた経験があるところから、それを見込んでの依頼であった。
 私は、いささか興奮してしまった。今井通子さんといえば当時、女性として世界初のヨーロッパ三大北壁(マッターホルン北壁、アイガー北壁、グランド・ジョラス北壁)完登者として知られる、世界を代表するアルピニストだった。八三年から八四年にかけては中国側エベレスト(チョモランマ)北壁冬季登山隊長として遠征し、八一〇〇メートルまで達した。翌八五年、再度エレベストに挑戦し、八五〇〇メートルで阻まれたものの北壁の冬季世界最高到達点を記録していた。一方、白頭山は北朝鮮と中国の境に立つ、朝鮮半島の最高峰(二七五〇メートル)で、北朝鮮が国のシンボルとして誇る名峰である。名アルピニストによる名峰挑戦に同行できるなんて。思わず胸が高鳴った。
 
 後で今井さんから聞いた話によると、白頭山登頂を思いたったのは、伯父の宇都宮徳馬氏(故人。政治家。衆院議員・参院議員を歴任)からの勧めだった。その勧めとは「ヒマラヤの山々によく挑戦しているようだが、朝鮮にも立派な山がある。これにも登ってみないか」というものだったという。宇都宮氏は日朝友好親善運動を通じて北朝鮮の金日成主席と親交があったことから、たひたび「北」を訪問したことがあり、そこの野山に詳しかった。そんなことから、姪に白頭山登頂を勧めたものと思われる。日朝友好親善に一役買ってほしい、との思いもあったかもしれない。
 伯父の勧めを受けて、今井さんは「北朝鮮の事情に詳しい記者を紹介してほしい」と知り合いの伊藤副社長に連絡したというわけだった。

 今井さんに会って話を聞くと、今井さんを隊長とする「カモシカ同人隊」を派遣したいとのことだった。カモシカ同人とは彼女をリーダーとする登山愛好者グループ。
 が、北朝鮮の山に登りたいといっても、自由にでかけるわけにはいかない。日本と北朝鮮とは国交がないから、北朝鮮政府から入国許可を得なければならない。私は、さっそく今井さんの希望を在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を通じて北朝鮮の朝鮮対外文化連絡協会(対文協)に伝えたが、内心では、この試みは難しいのではないか、との思いが強かった。なぜなら、この時期、日本と北朝鮮の関係は最悪の状態だったからだ。
 この時期、日本は中曽根政権の時代だった。一九八二年十一月に成立した中曽根内閣は「日米は運命共同体」として米国との同盟関係をいっそう強化し、韓国の全斗煥政権との関係も強めた。このため、北朝鮮は日本の外交政策に対し反発を強めていた。八三年十一月には、北朝鮮が、南浦港に入港した日本の冷凍船第18富士山丸を拿捕し、紅粉勇船長ら五人をスパイ容疑で逮捕する事件が起き、日朝関係は悪化の一途をたどっていた。関係が悪くなると、人的交流も細るというのがそれまでの日朝間係のパターン。だから、今井さんが登山を申請しても実現は無理なのでは、と思えたのである。 
 でも、渡航実現のために全力を尽くそうと、宇都宮氏に主席あての親書を書いてもらい、八六年暮れに訪朝した韓徳銖・朝鮮総連議長に託した。

 明けて一月十七日、対文協から宇都宮氏あてに「登山隊のわが国訪問を歓迎する」との電報が届いた。同氏の主席あての親書が功を奏したのかもしれない、と思った。
 いずれにせよ、登山隊が結成された。隊長は今井さんで、隊員は同人の大蔵喜福(雑誌編集者)、福島正明(コンピュータープログラマー)、早川晃生(会社員)、近藤謙司(大学生)の四氏。朝日新聞社とテレビ朝日がこれを後援することになり、「朝日」から私と佐久間泰雄・写真部員が、テレビ朝日から大谷映芳(ディレクター)、北島徹(カメラマン)が同行することになった。総勢九人であった。
 報道陣のうち、大谷ディレクターは海外登山のベテランで、八一年の早稲田大学K2登山隊では登攀隊長として頂上に立った経歴の持ち主。佐久間写真部員も芝工大山岳部に籍を置いたことのある登山のベテランで、今井さんらが八三年から八四年にかけて中国側エベレスト(チョモランマ)北壁に挑んだ時、それに同行した実績があった。
 ところが、かくいう私は、学生時代の夏休みに郷里の八ヶ岳や、南アルプスの甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山に登ったことがあるくらい。冬山といえば、やはり学生時代に八ヶ岳の阿弥陀岳に登ったものの、下山中に足を滑らせて雪の斜面を滑落、あやうく一命をとりとめた経験があるだけだった。果たして、同行記者がつとまるだろうか、かえってお荷物になりはしないか。いろいろ考えると前途不安だったが、「行けるところまでゆこう」と心に決めた。

 登山隊一行は二月十日、成田を出発して北京へ。同十二日、ここから国際列車で北朝鮮の平壌へ向かった。翌十三日午後三時五十五分、列車は平壌駅に着いた。
 平壌はすでに薄暗く、駅舎の外は吹雪だった。対文協のビョン・スンダク(辺承徳)副委員長、キム・ドンチョル(金東哲)副局長らが出迎えてくれた。私たちは、車でポトンガン(普通江)ホテルへ向かった。
 翌朝、目覚めると、快晴。平壌市内は一面、銀世界だった。氷点下八度。市内を流れるテドンガン(大同江)も氷結していた。
                                       (二〇〇八年二月九日記)

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