もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第103回 「革命60年」を迎えたソ連へ

ソ連取材班のメンバーと協力者たち(右から筆者、通訳のゾーリン氏、ノーボスチ通信社日本課長、取材班団長の秦専務、モスク支局の新妻支局員、取材班の高山外報部員、取材班キャップの青木ヨーロッパ総局長、白井モスクワ支局長、同夫人=1977年6月、モスクワ郊外で取材班の中井写真部員写す)




 編集委員になって三カ月たった一九七七年(昭和五十二年)三月、思いがけない仕事がもたらされた。それは、なんと、ソ連を対象とする長期にわたる取材だった。もちろん、編集委員として初めての本格的な仕事であった。

 この年は、ロシア革命から六十年にあたった。レーニンが率いるボリシェビキ(ロシア社会民主労働党の多数派)が武装蜂起してケレンスキー政権を倒し、ソビエト政府を樹立したのが一九一七年(大正六年)十一月七日。したがって、ソ連はこの年に「革命六十周年」を迎えることになっていた。人間でいえば還暦である。
 このため、東京本社外報部はこれを記念して革命六十周年を迎えるソ連の実像を伝えようと、ソ連に取材班を派遣することになった。

 取材班のメンバーは以下の通りだった(所属はいずれも当時のもの)。
  秦 正流(専務・編集担当)
  青木利夫(ヨーロッパ総局長)
  岩垂 弘(東京本社編集委員)
  高山 智(東京本社外報部員)
  中井征勝(東京本社写真部員)
 取材班の団長は秦専務、キャップは青木・ヨーロッパ総局(在ロンドン)長。秦専務は外報部出身でモスクワ支局長の経験があり、朝日新聞きってのソ連通といわれていた。それに、ヨーロッパ総局は外報部の管轄だから、取材班は外報部を中心に編成されたといってよかった。そこへ社会部の私が加わった形だったが、おそらく、外報部から社会部に「一人出してくれ」と要請があり、社会部が私を選んで“供出”したのだろう。
 外報部が社会部に協力を要請したのは、外報部として「ソ連をまるごと紹介するとなると、社会部が日ごろ取材しているような分野の取材も必要になる。なら、社会部からも」と考えたのだろう。一方、社会部は「ソ連取材となれば、軟派の記者よりは硬派の記者が向いているだろう。それに、社会主義国での取材なら、左翼について多少取材経験のある記者がいいだろう」というわけで、私を推薦したものと思われた。
  
 ソ連取材班の一員に加えられた、と社会部長から伝えられた時、私の心は躍った。なぜなら、新聞記者になってこのかた、できれば一度、この国を取材してみたい、と思い続けていたからである。ついに、その機会がきたのだ。
 いまの若い人には信じがたいことだろうが、この時期、ソ連は世界の二大超大国の一つであった。第二次大戦後、世界は「冷戦」と呼ばれた、戦争の危機をはらんだ「東西対決」の時代が続いていたが、「西」とは米国をリーダーとする資本主義陣営、「東」とはソ連が主導する社会主義陣営であった。ソ連は、いわば社会主義陣営の総本山であった。
 だから、二大超大国の一つ、ソ連の動向は、世界的な関心事であり、マスメディアで働く者にとっても大なる興味の対象であったわけである。

 それに、一九五〇年代に学生時代を過ごし、とくに学生運動などを通じて「革命」や「社会変革」を目指した者にとっては、ソ連は特別な存在だった。というのは、それらの学生にとって、ソ連は、あこがれ、あるいは崇拝の対象であったからである。
 このころの左翼陣営では、ソ連は「社会主義が実現した国」「人類にとって理想の国家」「搾取のない国」「労働者の国家」「働く者が主人公の国家」などといった礼賛の言葉で彩られていた。まさに、光り輝く存在であり、希望の灯であった。左翼運動も労働運動も、この国を「目指すべき国家」のモデルとみていたと言ってよい。
 例えば、一九六六年に日本共産党中央委員会出版部から発行された『日本共産党の四十年』は次のように述べていた。
 「第一次世界大戦のなかで、世界資本主義の矛盾が集中していたロシアでは、ブルジョア民主主義革命につづいて十月社会主義革命が勝利しました。十月革命は世界の歴史にあたらしい時代、すなわち社会主義と資本主義という『二つのあい対立する社会体制の闘争の時代、社会主義革命および民族解放革命の時代、帝国主義の崩壊と植民地主義一掃の時代、各国人民がつぎつぎと社会主義の道へふみだして社会主義と共産主義が世界的規模で勝利する時代』(モスクワ声明)への道をきりひらきました」
 日本共産党史での記述だから、これが、この当時の日本共産党のソ連に対する公式見解とみていいだろう。
 そして、一九六七年に同出版部から出版された『共産主義読本』には、こう書かれていた。
 「マルクス・レーニン主義の理論にみちびかれて、全世界の労働者階級と人民の解放闘争は急速にひろがり、発展し、着実な勝利をおさめてきました。レーニンによってつくられ、指導されたボリシェビキ党(現在のソ連共産党)は、ロシアの労働者階級と人民をみちびいて革命をやりとげ、世界史上はじめての社会主義国家をつくりあげました。こうして、人類の歴史は、社会主義・共産主義へと移行してゆく、あたらしい時代にはいったのです」
 「歴史は、マルクス・レーニン主義の理論を正しくつかみ、それをそれぞれの国の革命闘争の現実に創造的に適用したときに、労働者階級と人民のたたかいは着実に前進し、勝利をかちとることができるということを、しめしています」
  
 もっとも、ソ連に対する批判も次第に顕在化しつつあった。きっかけは、一九五六年に開かれたソ連共産党大会で行われた、フルシチョフ第一書記による「スターリン批判」だった。フルシチョフ第一書記は、三年前に死亡していたスターリン元首相を、党内民主主義の抑圧、集団指導の否定、己への行き過ぎた個人崇拝などの誤りがあったとして、きびしく糾弾した。スターリンは、それまで、全世界の共産主義者から最高指導者としてあがめられていたから、フルシチョフによる批判は全世界に衝撃を与えた。
 これを機に、日本では、日本共産党の学生党員を中心に、ソ連共産党が主導する国際共産主義運動に対する懐疑が生じた。それは、日本共産党が「ハンガリー事件」をめぐってソ連を支持したことで決定的になった。この事件は、「スターリン批判」直後にハンガリーのブダベストで起きた、民衆による民主化要求のデモを、ソ連が武力で鎮圧した事件である。
 一九五八年には、日本共産党を除名された学生活動家によって「共産主義者同盟」(ブンド)が結成された。ブンドは、「真の前衛党」を目指すと宣言し、資本家階級とともにソ連や日本共産党の打倒を掲げた。
 この時期、もう一つの反ソ連組織が生まれた。一九五七年に結成された「日本トロツキスト連盟」だ。同連盟はその後、「日本革命的共産主義者同盟」(革共同)と改称する。革共同のスローガンは「反帝国主義・反スターリン主義」だった。具体的には、アメリカや英国などの帝国主義国と、ソ連と中国に代表される既成の社会主義国と各国共産党をともに打倒して、真の労働者国家の樹立を図るというものだった。
 その後も、一九六八年にはチェコ事件が起き、ソ連への批判が世界的に高まる。これは、チェコ共産党による自由化の試み(共産党中央委員会が複数政党制などを決議。こうした自由化の動きは「プラハの春」と呼ばれた)が、ソ連・東欧五カ国軍の武力介入によって息の根をとめられた事件だ。それに、ソ連当局による国内反体制派への人権抑圧の実情が地下出版などを通じて西側諸国にも知られるようになり、このこともソ連批判の根拠の一つになった。日本共産党もソ連共産党が日本の平和運動に「不当に介入した」としてソ連を批判を強める。
 とはいえ、こうした一連の反ソ的機運の高まりによってひところのソ連崇拝熱は冷めつつあったものの、ソ連は依然として世界における二大超大国の一つという地位を保っていたし、わが国の左翼陣営の間では「問題があるが、それでもソ連はいまなお社会主義国」との見方が支配的だった。

 いずれにしても、私にとってソ連は、中学時代に観て目を見張った総天然色映画『シベリヤ物語』の舞台であり、学生時代の夏休みに数日かけて読みふけった、ミハイル・ショーロホフ作の『静かなドン』の舞台だった。そしてまた、新聞記者になってから熱中して読んだ、ジョン・リードのドキュメンタリー『世界をゆるがした十日間』の舞台だった。その舞台をこの目でみることができる。そう思うと、胸が高鳴った。
 私にとって訪ソは三度目。六八年にモスクワとハバロフスク、七〇年にモスクワに滞在しているが、いずれも取材が目的ではなかったから、取材のための訪ソは今回が初めてといってよかった。     

 七七年五月二十五日、私たちソ連取材班は羽田発のアエロフロート機(ソ連国営の航空機)でモスクワへ向かった。羽田空港で手にした新聞は一面トップで「ソ連共産党中央委がポドゴルヌイ最高会議議長の解任を決定」と伝えていた。元首が解任されたのだ。大ニュースである。「この人事は何を意味するのだろう」。機内での私たちの話題はもっぱらそのことだった。
 モスクワで、ロンドンから飛んできた青木ヨーロッパ総局長と合流。こうして、私たちのソ連取材が始まった。

(二〇〇七年二月十六日記)





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