もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第66回 エンプラ闘争への過剰警備が問題に


長崎労災病院に入院中の筆者(1968年1月23日)




 一九六八年(昭和四十二年)一月十七日。米原子力空母エンタープライズの入港をひかえ た長崎県佐世保市で、「入港阻止」を掲げる反代々木系三派全学連の学生たちが米海軍基 地への突入を図り、これを阻止しようとした警官隊と衝突。これを取材中だった私は警官隊 による警棒の乱打に会い、頭、顔、手足の七カ所に傷を負った。
 私が被害を受けた模様は、NHKテレビによって全国に放映された。その間のことを、当時 の朝日新聞佐世保支局長・田中哲也氏(故人)が記録している。当時、同支局に朝日新聞 の取材本部が設置されていたので、田中氏は現地の責任者としてエンタープライズをめぐる 全局面を掌握できる立場にいた。同氏は書く。

 「一月十七日午前十一時半ごろ、私は取材本部のなかにいた。テレビジョンに映し出され る平瀬橋周辺での学生と警官との衝突の実況放送を見ていた。そのころ警官隊は四方から 学生たちを囲み、叩き、蹴飛ばしながら橋のたもとの佐世保市民病院の方に追いつめてい た。オーバーコートを着た一人の男が警棒で打ちのめされている場面が大写しにされた。両 手で頭をおおって耐えている男の顔が横を向いたとき私は息をのんだ。それは私たちの仲 間で東京本社社会部からきていた岩垂弘記者だった。間もなく頭と両手に包帯を巻いた彼 が取材本部に現われた。『ひどいなあ』とひとことうめくように言うと、彼は隅っこの机にすわ り、血のにじんだ包帯の手を動かしはじめた。手記を書こうというのである。その夜、彼は佐 世保市内の長崎労災病院に収容された。私たちは彼を病院に訪ねた。冷たいコンクリート の部屋に彼は横たわっていた」(『佐世保からの証言』、一九六九年、三省堂新書)

 佐世保市消防局に設けられた救護対策本部によると、この日の負傷者は九十二人。これ には、報道関係者四人、一般市民三人が含まれていた。 
 負傷者が多かったこと、とりわけ、報道関係、一般市民にけが人が出たことで、革新団体 は一斉に「過剰警備だ」と抗議の声をあげた。マスコミも警察の警備のあり方を問題にし始 めた。そのせいか、一転、それまで「暴力学生」と非難を浴びていた三派全学連の学生たち に市民の間から同情や共感の声が出始めた。
 こうした警察の警備への批判の高まりに、北折篤信・原子力空母寄港警備本部長(長崎県 警本部長)は記者会見で「けが人を出さないようにという警備方針だったが、結果的に命令 や方針が部下に徹底せず、報道のマークがありながら迷惑をかけるケースも出た。申し訳な い。けが人に対してはできるだけのことをしたい」と述べた。
 木村俊夫内閣官房長官も夕方の記者会見で「学生、警官隊の双方にかなりの負傷者を出 したが、報道人を含めた一般市民にけが人が出たことは非常に申し訳ない」と述べた。
 
 こうしたことも影響していたのだろう。翌一月十八日の入港反対運動は高まりをみせた。私 は入院中で取材に行けなかったが、新聞によると、この日午後、市営球場で開かれた、社会 党・総評系の米原子力艦隊阻止全国実行委員会と共産党系の安保破棄諸要求貫徹中央 実行委員会共催の「アメリカのベトナム侵略反対、沖縄小笠原即時返還要求、原子力艦隊 寄港阻止佐世保大集会」には主催者発表で四万七千人(警察推定二万六千人)が集まっ た。集会後、参加者はデモ行進に移ったが、先頭には社会党の勝間田清一社会党委員長、 野坂参三共産党議長、堀井利勝総評議長らがいたという。
 前夜、福岡市の九州大学に泊まり込んでいた三派全学連の学生約五百五十人も佐世保 駅着の急行でやってきて、大集会の会場に入った。デモ行進にも参加したが、途中でデモ隊 と離れ、米海軍基地に近い佐世保橋に向かった。そのころ、学生の集団は千人以上にふく れ上がっていた。この中には、反代々木系の労組員の組織、反戦青年委員会のメンバーの 姿もみられた。学生らは角材を手にしていなかった。
 やがて、学生らは佐世保橋に殺到。ここに放水車やガス弾で阻止線を張っていた警官隊と 衝突した。この日も警官隊は警棒を行使したが、前日のようには深追いしなかった。二時間 後、学生らは現場から引き揚げたが、この日の衝突で、学生十五人が逮捕され、六十人が 負傷した。負傷者の内訳は学生二十五人、警官三十一人、労組員四人であった。
 入港反対の声をあげたのは社会党系、共産党系、反代々木系団体ばかりでなかった。十 七日には公明党が佐世保市内で寄港反対集会を開き、延べ二万人が参加した。公明党とし ては初めての大衆行動だった。

 佐世保市内に抗議の声が充満するなか、十九日朝、エンタープライズが入港した。原子力 駆逐艦トランクストン、ミサイル駆逐艦ハルゼーを同行させていた。そして、二十三日、これ らの艦艇は佐世保を去った。

 この間、社会党、共産党、反代々木系団体による抗議集会や抗議行動が連日あった。そ ればかりでない。二十二日には、佐世保市内で、民社党・同盟系の核基地化抗議集会が開 かれ、主催者発表で約七千人が集まった。集会は「全学連の不法行為は許せないが、無抵 抗の者や市民への一方的な警棒使用は行き過ぎだ」などとする警察への抗議と、「エンター プライズの寄港は核持ち込みにつながる。国民を核の恐怖から守るために日米間に核持ち 込み禁止条約を結べ」という政府への要望書を採択した。
 その後、二月十二日には佐世保べ平連が生まれた。同月十九日には、市内の公園から一 つのデモ行進が出発した。主婦、教師、商店主、サラリーマンら約百四十人。先頭には「エン タープライズが佐世保を汚した日、一緒に歩きましょう」と書かれた幕が掲げられていた。佐 世保ペンクラブ会長・矢動丸広氏ら文化人の呼びかけで生まれた「19日佐世保市民の会」 で、その綱領には「平和を愛する佐世保市民の集いです」とあった。
 戦前は日本海軍、戦後は米海軍に経済的に依存するところが大きかった佐世保では、そ れまで市民による反戦平和の運動はほとんどみられなかった。そこに、エンプラ寄港をきっ かけに、市民による反戦平和運動が芽生えたのだ。その後、長期間にわたって、毎月十九 日、「19日佐世保市民の会」による行進が続けられた。
                 
 ところで、私自身のけがのことだが、経過が良好という診断で、入院から十一日目の一月 二十七日に退院した。病院からタクシーで福岡空港に向かった。東京から一緒に出張してき た社会部先輩の高木正幸記者が付き添ってくれた。福岡空港から羽田空港へ。
 退院したものの頭からはまだ包帯がとれなかった。そこで、しばらく自宅から東京・大森の 東京労災病院に通った。
 佐世保労災病院に入院中、長崎県警の警部と警部補が事情を聴きにきた。負傷した時の 様子を話してくれ、ということだった。事情聴取は分部照成・長崎支局長の立ち会いのもとで 行われ、調書がつくられた。警部らの話では、調書に基づいて、私を負傷させた者を捜査す るとのことだった。
 三月に入ってからだったと記憶している。弁護士の来訪を受けた。佐世保でけがをした反 代々木系学生の救護にあたっている弁護士で、「限度を超えた実力行使で学生、労組員、 市民に傷を負わせた警官を特別公務員暴行陵虐(りょうぎゃく)罪と同致傷罪で地検に告発 するから、あなたも加わってほしい」とのことだった。
 社会部長(部長の交代があり、三月から新しい部長だった)に相談すると、「加わらない方 がいいだろう。君のことは、社にまかせてくれ。社としては今、警察に犯人捜査を要求してい る」と言う。だから、告発には加わらなかった。
 しかし、警察側の対応は、最終的には新井裕・警察庁長官が東京本社を訪れ、田代喜久 雄編集局長に遺憾の意を表するというものだった。「岩垂記者をなぐったのは大阪府警が佐 世保に派遣した警官隊らしいというところまではわかったが、なぐった警官を特定できなかっ た」。新井長官が言明した内容はそういうものだったという。それを、私は社会部長から聴か された。私への直接の説明ではなかった。かくして、警察からは謝罪も補償もなかった。私の けがは結局、労災ということで処理されただけだった。
 こうした経緯から、私のなかでこんな思いが強くなっていった。「企業というものは従業員の 人権を守ることに積極的でない。であれば、人権は自分自身で守らなくては」
 社内外からいろいろな声が寄せられた。過剰警備を批判するものが大半だったが、「お前 が学生集団の中にいたからだ」と、なぐられても当たり前といわんばかりのものもあった。 が、私は学生集団の中にいたわけではない。むしろ、取材上の必要から学生と警察双方が よく見えるところ、それも最も“安全”とみられた病院の玄関に近いところにいて被害を受けた のだった。 
 エンタープライズが再び佐世保に入港したのは、それから十五年後の一九八三年(昭和五 十八年)三月二十一日のことである。すでにベトナム戦争は終結していた。私はまた、佐世 保に向かった。革新団体による寄港反対集会を取材するためである。こんどは第一回寄港 時のような混乱はなかった。私は、私が負傷した市民病院周辺の“戦場跡”を歩いたり、佐 世保港に停泊している巨大なエンタープライズを見ながら思ったものだ。「エンタープライズ が十五年間も佐世保に姿を現さなかったのは、やはり、十五年前のあの激しい反対運動が 影響しているのではないか。つまり、米国政府も日本政府もあの反対運動を無視できなかっ たということではないか」と。

 私の書斎の机の引き出しの中に一枚の腕章がある。佐世保でなぐられた時に腕につけて いた、「朝日新聞」の文字と社旗の入った腕章だ。当時はブルーの布地のところどころが赤く 染まった血染めの腕章であったが、いまでは、その部分が色あせて、かすかな赤に変色して いる。が、私の記憶の中では「佐世保」はまだ色あせていない。 (二〇〇六年二月一日記)





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