もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第33回 盛岡から浦和へ 


浦和支局時代の筆者。1961年、浦和市郊外の
「野田のサギ山」で。ここは白サギの群生地だっ
たが、市街化が進んだため1972年から姿を消した



 一九六〇年(昭和三十五年)八月六日、私は列車で岩手県盛岡市から埼玉県浦和市(現さいた ま市)へ向かった。朝日新聞浦和支局へ転勤になったからだ。
 浦和支局は岸町の静かな住宅街の中にあった。「これが新聞社か」と思わず目を丸くしてしま ったほどの、木造平屋建ての古びたしもた屋だった。左半分が支局の事務所、右半分が支局長住 宅。両者を仕切っていたのは木の扉一枚だった。
 陣容といえば、ここも盛岡支局と同じく支局長に支局員五人。盛岡支局と違う点は、夕刊地帯 の支局ということだった。当時、朝刊と夕刊がセットで配られていたのは、東京本社管内では関 東平野各県と静岡県、それに北海道の札幌市周辺。甲信越や東北の各県、北海道の大部分は朝刊 のみの配達であった。夕刊用の原稿締め切り時間は正午、朝刊用のそれは午後十時半ころだった と記憶している。もちろん、支局員の主たる仕事は、県版である埼玉版用の原稿を書くことだっ た。

 まず、サツまわり(警察まわり)を命じられ、次いで教育担当、遊軍(いわば無任所)をやら された。取材の仕方、原稿執筆の要領など、記者としての基本的なことは前任地で身につけたは ず、というのが転勤者を受け入れる側の前提だったから、すぐ持ち場を与えられ、特別の研修や 教育をほどこすということはなかった。
 新しい土地だったから、若干の不安もあった。そこで「最初の赴任地、盛岡支局で学んだこと をここで生かせばいいんだ」と自分に言い聞かせると、心が落ち着いた。
 朝、下宿から県庁舎内にあった記者クラブに向かい、取材をすませると記者クラブで原稿を書 き、夕方近くに支局から記者クラブにオートバイでやってくる原稿係に原稿を渡す。その後、こ ろあいを見て支局にあがる、というのがここでの通常の勤務パターンだった。
 余談だが、当時の原稿係は内田潔君といい、支局に近いところに住んでいた。住宅の隣に土蔵 があり、内田君によれば、終戦直後、それを若き日の水上勉に貸していた。そのころの水上はま だ不遇で、ここで『フライパンの歌』を書き上げる。これが、水上の作家デビュー作となった。  

 六〇年八月といえば、戦後最大の大衆運動といわれた六〇年反安保闘争の直後だ。闘争が盛り 上がりをみせたのは五月から六月にかけてだったが、そのころ岩手にいた私としては、高揚した 闘争の余韻が東京やその周辺にまだ残っているのでは、との思いがあった。が、浦和でみる限 り、街にはダルな空気がよどんでいて、すでに反安保闘争をしのばせる緊張感はなかった。闘争 の熱気は急速に去ってしまっていた。
 それに、浦和とその周辺の町々の印象を一言でいえば、東京の近郊に位置する、東京通勤者の ベッドタウンという言い方かぴったり。そのせいか、浦和とその周辺の町々はおしなべて特徴が なく、取材の舞台としてはつまらなかった。豊かで奥深い独自の文化をもっていた岩手の町々と の違いを改めて痛感したものだ。
 そんな中で、埼玉在住の前衛書道グループ「蒼狼」と出合えたのは救いだった。岡部蒼風、今 井萬里、新井狼子といった人びとである。今井は埼玉県庁秘書課にいて、知事ら県幹部のあいさ つ文や県知事名で授ける賞状などを揮毫していた。それに、自宅で書道塾を開いていた。その作 品は前衛的で、とても女性とは思えない、大胆でエネルギーあふれる筆致だった。
 このグループとのつきあいの中で、絵画への関心が芽生えた。グループの面々との語らいの中 で、画家の名前が出てきたからだ。瑛九(えい・きゅう)、池田満寿夫、菅井汲(すがい・く み)といった名前を知ったのもこのころである。これらの画家は当時はあまり知られていなかっ たが、その後、著名な画家になった。以後、絵画鑑賞が私の趣味の一つとなった。もちろん、こ のグループとの付き合いのなかからいくつかの記事も生まれた。

 浦和支局時代のもう一つの“収穫”は、ここでも優れた同僚に恵まれたということである。
 ここで一緒に仕事をしたのは松下宗之、和田俊、三浦真、早房長治の各氏らだった。松下はそ の後、政治部に移り、政治部長、東京編集局長、専務、社長という道を歩んだ。社長在勤中、病 を得て早世した。和田は外報部員、パリ支局長、欧州総局長、論説副主幹、テレビ朝日「ニュー スステーション」のコメンテイターを務めたが、彼も病に倒れ早世した。三浦氏は新潟支局長な どを歴任したあと、新潟テレビ21の役員を務めた。早房氏は経済部員、論説委員、編集委員を歴 任し、現在、地球市民ジャーナリスト工房代表。

 それにしても、私たちは実によく飲んだ。私たちのうち、妻子がいたのは松下だけで、あとの 四人はいずれも独身だったから、仕事がすむと、つるんで飲み屋に直行した。みな若かったか ら、いくらでも飲めた。そして、人生について、世界と日本について、政治と経済、はたまた歴 史、哲学、文学、美術、音楽について、新聞のありかたについて、夜がふけるのもいとわず果て しなき議論を続けた。
 ある夜、私たちは浦和駅近くで飲んだ。私は、したたかに酔った。自転車のペダルをこいで下 宿に向かった。駅前から県庁に向かう道路を下る。このあたりは坂道で、自転車もスピードが出 る。気がつくと、埼玉会館前のコンクリートの電柱に自転車ごとぶつかり、道路に投げ出されて いた。が、どこも痛くない。起きあがり、自転車を引いて下宿まで歩いた。
 翌朝、目が覚めると、片方の目が見えない。手をやると、額がはれていて、ずきずきする。さ っそく眼科医院に行く。電柱に衝突した際、片方の眼窩の少し上のあたりを打撲し、腫れ上がっ たのだった。支局に行くと、支局長が叫んだ。「おい、岩垂、いったいどうしたんだ。まるでお 岩の顔のようだぞ」
 以来、私は飲んだら、自転車に乗らないことにした。そればかりでない。酒づきだから車の運 転免許をとらないでいようと思い、ついに今日まで免許をとらないまま過ごしてきた。





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