もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第16回 岩手県とはどんなところ?  その4 辺境が育んだ独自の文化


宮澤賢治は小岩井農場を舞台とする作品を書いた。その小岩井農場の玄関口
である小岩井駅(田沢湖線)――雫石と宮澤賢治を語る会発行の絵はがき
「宮澤賢治 雫石の青春風景U」から



 盛岡支局での勤務が日を重ねるうちに私の心に蓄積されていった岩手に関する印象の一つは、 ここは独自の文化をもったところだな、ということだった。そうした思いは、盛岡のあと、浦和 支局(埼玉県)、静岡支局を経験することによって一層強固なものになっていった。埼玉、静岡 では、それぞれの土地に根差した独自の文化といったものはほとんど見当たらなかった。それに ひきかえ、岩手は、その風土と歴史を色濃く反映した独自の文化を感じさせた。
 私が、なるほど岩手らしい文化だな、と思ったものはまことに豊かだった。前回紹介した民謡 もその一つ。「民謡の宝庫」といわれるくらい、県内各地には古くから伝わる民謡があった。盛 岡では、夏になると、「さんさ踊り」で街が活気づいた。浴衣姿の女の子たちが街頭で踊るのを 見て、詩人高村光太郎が「岩手の人沈深牛の如し」と評した岩手の人たちにもこんなにも激しく リズミカルな踊りがあったのかと目を見張ったものだ。県内各地に「鹿踊り(ししおどり)」が あり、とくに花巻のそれが有名だった。五穀豊穣、無病息災、家内安全などを祈願する踊りだ。 太鼓をうち鳴らし、たて髪を振り乱して舞う勇壮な踊りにはすさまじいまでの迫力があり、圧倒 された。
 毎年六月十五日に岩手山麓の滝沢村から盛岡市までのコース行われる「チャグチャグ馬コ」も 岩手独自の文化的な行事といっていいだろう。そして、私が赴任したころには、まだ盛岡周辺で 「南部曲がり家」を見ることができた。カギ型の農家で、同じ屋根の下に居間と馬屋(厩)が続 いていた。岩手が全国有数の馬産地だった名残り。もう数が少なく、当時でさえすでに文化財の 気配であった。
 そして、遠野の民話。柳田国男の『遠野物語』は、遠野の人、佐々木鏡石が提供した民話や伝 説や奇聞を柳田がまとめたものだ。日本民俗学が生んだ画期的な名著とされる。
 
 岩手が生んだ文学者といえば、やはり石川啄木と宮澤賢治だろう。
 啄木の歌は叙情的だが、その根底に色濃くにじむのは岩手の人々の暮らし、すなわち生活の貧 しさである。

年ごとに肺病やみの殖えてゆく 村に迎へし 若き医者かな
その名さえ忘れられし頃 飄然とふるさとに来て 咳せし男
かの村の登記所に来て 肺病みて 間もなく死にし男もありき
田も畑も売りて酒のみ ほろびゆくふるさと人に 心寄する日

 かつての渋民村のことを歌ったこういう歌に出合うと、やはり啄木は岩手が生んだ詩人だと思 った。
 啄木は貧窮の中でわずか二十七歳で病没した。そうした境遇が影響したのだろうか、晩年の彼 は社会主義に傾斜していた。死の一年前の一九一一年(明治四十四年)には「自分を社会主義者 と呼ぶことを躊躇していたが、今ではもう躊躇しない」との手紙を友人に送っている。この年に 発表した詩『はてしなき議論の後』はロシアのナロードニキへの共感をうたったものだ。
 
 宮澤賢治の作品からも、当時の岩手の農民の厳しい生活ぶりがうかがわれる。

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病してヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマナナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツオロオロアルキ

 よく知られる「雨ニモマケズ」の一部だ。この詩からも、冷害が農民を苦しめていたことが分 かる。賢治童話の名作の一つとされる『グスコーブドリの伝記』は、冷害による飢饉で父母と離 れた少年が、やがて学問で身をたて、最後には冷害による被害から農民を救うため、その身を犠 牲にするという物語である。賢治自身、採石工場技師として炭酸石灰の製法改良に従事するな ど、農民への献身に没入した。
 賢治の作品に流れているのは、痛々しいまでの他者に対する誠実さと献身といってよい。岩手 の風土が彼をしてそうさせたのか、それとも彼の信仰(賢治は敬虔な法華経の信者だった)のな せるわざだろうか。そのどちらも深く影響していただろうというのが私の見方だ。

 岩手で独自の文化が育まれたのは、一つには、いわゆる「中央」から遠隔の地だったからだろ う。辺境だったからこそ、「中央」の影響を受けることが少なく、かえって独自の文化が根づ き、育ったのだと思われる。これに対し、「中央」に極めて近い埼玉や静岡は、文化的には「中 央」の影響をもろに受ける、いわば「文化の植民地」であって、独自の文化は育ちにくかったと いうことだろう。





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