もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第32回 岩手・忘れ得ぬ人びとD  農村文化懇談会のメンバー


アンコール復刊された「戦没農民兵士の
手紙」(岩波新書)



 大型書店には、「岩波新書」の書棚を設けているところがある。その前に立って、書棚を埋め た新書の書名を目で追う。ある書名に出合うと、私の脳裏に四十数年前の記憶がよみがえる。
 その岩波新書の書名は、岩手県農村文化懇談会編の『戦没農民兵士の手紙』。

 朝日新聞盛岡支局に勤め始めてから二年目、一九五九年(昭和三十四年)の暮れのことだ。取 材先の石川武男・岩手大学農学部助教授(農業土木学。その後、教授、農学部長)を訪ねると、 石川が言った。「戦没農民の手紙を集めて刊行することになったんだ」。戦没学生の手記『きけ  わだつみのこえ』の農村版という。
 「これはニュースになるぞ」。私の脳裏にひらめくものがあった。
 『きけ わだつみのこえ』が日本戦没学生手記編集委員会編で東大協同組合出版部から刊行さ れたのは一九四九年のことである。私もそれを読んでいた。その農村版とは、なんとも興味深い 発想ではないか。新聞記者としての好奇心がうずいた。そこで、石川に「もっと詳しい話を」と 頼んだ。
 石川によると、岩手県農村文化懇談会という文化サークルがある。農民、公民館主事、教員、 農協職員、農業改良普及員、保健婦ら主に県内の農村に住む人たち約百人の集まりで、年一回集 まっては農村の生活や文化活動について話し合っているという。
 第三回の集会がしばらく前に開かれたが、そこでは農村に残っている戦争の傷跡のことが話題 になった。とくに、ジャーナリズムでは戦没学生のことが華やかに取り上げられ、その手記がい くつも出版されるのに、戦没した農民のことはほとんどかえりみられないことが問題にされた。 その結果、「農民だって喜び勇んで戦場に行ったのではないはずだ」「農民は妻や子どものほか に農業という生産の場を残しての出征だっただけに、学生たちとはまた違った深刻な悩みがあっ たのではないか。農村に再び戦争の悲劇をもたらさないために、戦没農民の手紙を貴重な文化遺 産として残そう」という提案があり、満場一致で決まったという。
 石川はさらに言葉を継いだ。「戦争の犠牲になったのは、学生だけではない。大部分は農村出 身の兵士たちだった。兵士たちはふるさとの肉親のことや田畑のことを心配しながら、死んでい ったと思う。そうした兵士たちの死をむだにしないために、戦没農民の記録をみんなで考えてみ たい。そうすれば、戦争をもっと身近に感ずることができる」
 私は、これを記事にした。それはこの年の十二月十二日付の岩手版に載った。それに目をとめ た東京本社の学芸部記者が取材にきた。こうして、岩手県農文懇の計画は全国に知られることに なった。
 全国から集まった手紙は、七二八人分、二八七三通。岩手県内のものが多かった。厳しい検閲 を得たものが大部分だったが、戦地から日本に帰る戦友や看護婦に託した非合法の手紙もあっ た。
 かくして、このうちの約百五十通を収録した『戦没農民兵士の手紙』が、六一年に岩波書店か ら刊行された。戦没農民の手記がまとめられたのは全国初の試みだった。
 手紙は「国のため、君のため、笑って散ります」といった類のものが多かった。農文懇は同書 の「あとがき」で書く。
 「学徒兵たちが、その戦争に疑いをもち、批判を抱きながら死出の旅路に出たのにくらべ、せ めて救われるような感じ、と同時に、逆に戦争の持つ意味も知らずに、知り得る機会を与えられ ずに、それ故に自ら進んで死地に赴いたであろうその健気さ、あわれならざる戦死などあろう筈 がないにしても、このような、わが身のあわれさをあわれさとも知り得ず死んでいったあわれ さ、こんなみじめな死に方がどこにあろう」
 編集にあたったのは農文懇の世話人だったが、そこには石川のほか、伊藤利己(県農蚕課)、 大島孝一(岩手大学助教授)、大牟羅良(雑誌「岩手の保健」編集者)、笠原潤二郎、川村光夫 (地域劇団「ぶどう座」主宰者、演出家)、斎藤彰吾(詩人)、沢恩、澤田勝郎(岩手紫波福祉 事務所長)、瀬川富男、矢崎須磨(盛岡婦人職業訓練所長)、吉光先男(公民館主事)の各氏が いた。
 世話人の方々とのおつきあいはその後も続いた。大島氏はその後、東京に移り、女子学院院 長、日本戦没学生記念会(わだつみ会)常任理事、日本キリスト教協議会靖国神社問題特別委員 会委員長を務めた。『戦争のなかの青年』(岩波ジュニア新書)の著書もある。
 大牟羅は岩手の農村と農民の実情を伝える『ものいわぬ農民』(一九五八年)、戦争で夫を失 った農婦からの聞き書き『あの人は帰ってこなかった』(一九六四年)、農村医療の実態を明ら かにした『荒廃する農村と医療』(一九七一年)を次々と発表(いずれも岩波新書)、全国的な 注目を集めた。『荒廃する…』は菊地武雄氏、『あの人…』は菊池啓一氏との共著だ。澤田は大 牟羅の後を次いで「岩手の保健」編集者になった。
 川村氏が率いる「ぶどう座」は湯田町を本拠とするが、演出家の千田是也や劇作家の木下順二 氏らに注目され、全国に知られるようになった。また、川村氏の、地元の民話を題材とした創作 劇『うたよみざる』は全国各地で上演されている。吉光氏は東京で出版事業に携わった。

 『戦没農民兵士の手紙』は一九八九年までに十七刷りを重ねた。累計で八万三千部。その後、 絶版となっていたが、一九九五年、戦後五十年を機に「アンコール復刊」された。 そして、私 にとっては意外なことであったが、『戦没農民兵士の手紙』と『あの人は帰ってこなかった』の 二冊を原作とした朗読劇『あの人は帰ってこなかった』が東京の劇団文化座によって創作され、 二〇〇三年十二月二十一日、東京の滝野川会館で上演された。イラク戦争に自衛隊が派遣される など、日本の世相がきなくさくなってきたことから、劇団文化座が「再び戦争への道を歩んでは ならない」と、この両作品を取り上げたのだった。
 客席から、悲痛な戦没農民兵士の声が流れる舞台を眺めながら、私は『戦没農民兵士の手紙』 が再び脚光を浴びるに至った時代の到来に何か不吉な予感と不安を感じていた。歴史は繰り返す という。が、戦没農民兵士の手紙が再び編まれるようなことがあってはならない、と思った。





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